オンリーNo.2



「ありえねーよ」
鏡のなかに映った見知らぬ女を見ながら、山口久美子は呆然と呟いた。顔にはたかれた粉に、唇にふっくらと引かれた紅。生まれてこの方一度たりとも染めた経験がない黒髪は、今は綿帽子にすっぽりと包まれて見えない。
嗚呼、これは誰だ。
この一見おしとやかな花嫁は、いったい何処の誰だ。
人よりは着慣れた和服のはずだが、流石の久美子も白無垢だけは人生初体験だった。
嗚呼、どうして自分はこんな服を着て、ここにいる。
このまま意識がブラックアウトしてしまえばよいのにとさえ思うけれど、生憎、自分の神経はそんじょそこらのことではへこたれない耐性を持っている。心身ともに男並み、否、男以上を自負し、それに誇りをずっと持ち続けて今日まで生きてきたが、そんな強さが今はこんなにも疎ましかった。
「ありえねーって……」
「この期におよんで何寝ぼけたこと言ってやがる」
と、背後から不機嫌そうな声が降りかかってきた。鏡越しに見えるのは、黒い紋服を着用している男―――沢田慎―――だった。
「んだと、この野郎……!」
さっと振り返り、ゴジラのような形相と勢いで声の主につかつかと歩み寄り、その胸倉を掴んでやり……たかったのだが、着物の裾に気を取られて、それも叶わなかった。くそ!と久美子は地団駄を踏む。
「なんで、あたしが、こんな服着てなきゃいけねぇんだよ!」
「何を今更」
と、慎は心底呆れたようにため息をつく。
「だいたいな。おまえは式場やら日取りやらを決めるときはあんなにはりきってたじゃねぇか」
眉間に皺をよせて、慎は久美子をぎろりと睨んだ。
あんなに嬉々としながら式場のパンフレットを覗き込んでいた久美子はいったいなんだったのか。大江戸一家に代々伝わるという白無垢を着れると大喜びしていた久美子は幻だったのか。
それなのに。
この期に及んで、この態度。
流石のオレだって傷つくぞ……、とは言えないところが沢田慎の沢田慎たるところ。「慎はここぞというときに押しが足りないんだよねー」と言い切ったのは、内山だったか。それとも南だったか。それはともかく、殊、恋愛面において、彼はここぞというときに言葉が足りない。飲み込む。押しが弱い(もともと口数が多いほうではないのだから、これは致命傷に近かった)。だからこそ、ここまで来るのにこんなにも時間がかかってしまったのだと彼自身も思っている。
悪名高き白金学園を卒業し、久美子に想いを告げるまで2年。彼女にそれを受け入れてもらうのにさらに2年。そこから彼が彼女に結婚を申し込んだのがさらにさらに5年後。我ながらなんという忍耐力。持久力。久美子の鈍感さにもめげず、自分の土壇場の弱さにも負けず。
ここまで長かった。本当に長かった。
道が険しかった分だけ、彼女にプロポーズを受けてもらったときは、感極まって思わず涙を流してしまったくらいだ。そんな男として情けない話は、どうにか内緒にしておきたいところだが……。
「あたしだって、何でこんなふうになっちゃってるのかわからねーよ!」
「自分のことだろうが!」
「何か妙におセンチな気分なんだよ!」
「おセンチって……」
(死語じゃねぇの?)
なんて思いながら、慎はがくりと肩を落とした。
「なんかこう……寂しいんだよぉぉ」
手を胸にあてて、久美子ははぁと息をついた。その妙に芝居がかった態度が慎の癪に障る。
「ああそうかい」
「こういうお祭りは好きなはずなんだけどなぁー」
(結婚が祭りかよ。まったくこいつときたら……)
「そりゃよかったな……」
「沢田ぁぁ……拗ねるなよー」
慎の冷淡な声に、久美子は慌てて彼の紋服の袖を掴んだ。
「もういいよ。もういい……」
「よくねぇ。絶対によくねぇぞ。おまえのその目がそう言ってる!」
てめぇの高校時代からずっと知っているあたしのことは誤魔化せないぞ!そう言わんばかりに、久美子は慎にむかってびしっと指を突き出した。
「そうだな。確かによくねぇな。おまえは何だかんだと結婚を渋ってるしな。オレもなんか納得いかなくなってきたし……」
「そ、そんな……」
ごくりと鳴る久美子の咽。慎をとりまく空気がどんどん不穏なものになってきたことくらい、いくら鈍感な久美子にだってわかる。
「お、落ち着け沢田。早まるな。あたしは何もおまえと結婚するのが嫌なわけじゃない」
「へー」
「おい!なんだ、その疑わしげな返事は!」
久美子はむっとしたように、慎を睨んだ。
「おまえはあたしの愛を疑うのか!?そうなのか!?そうなんだな!?」
「おまえこそ落ち着けよ。オレは別におまえの気持ちを疑っちゃいねぇよ。でもよ、そこまで結婚を渋られると……」
流石にオレだって傷つくぞ……、とはやはり言えない。恋愛は勝負とは違うけれど。そんなことは百も承知だけれど。でも、それを言ったらもう自分はこの女に身も心も負けてしまう気がする。力勝負じゃ逆立ちしたってこの女に勝てないことはもう今更どうしようもない。だからせめて、精神面では勝っていたいと思ってしまうし、そしてそんなことを考えている自分の器の小ささにつくづく嫌気がさして来る。
久美子とて慎が素直に「傷つく」と言えば、多少なりとも接し方を変えてくれるかもしれないが。だけど、それは慎にとってもっと癪だった。
「なんだよ。途中で止めるなよ」
「いや、いい」
「な、なんだよー沢田ぁぁ。あ、あたしはおまえとの結婚が嫌なわけじゃないんだぞ……!」
「うん。おまえはただ寂しいんだよな?」
大江戸一家の三代目や若松さんやテツさんやミノルさんや。おまえの大好きな人たちと離れるのが寂しいんだよな?
「で、オレはまた二の次だ」
「沢田ぁぁ、そんな言い方すんなよ」
そんな泣きそうな声を出したって無駄だ。慎は重いため息をついた。
泣きそうになりつつも、やはりここで否定してくれないのが、久美子の素直なところであり、そして残酷なところでもあると思う。否定はしないくせに、そのくせ慎を気遣うかのような仕草を見せる。実際、久美子は心のそこから慎のことを気遣っているのだ。だからこそ余計に性質が悪い。
「いいよ。もういいよ。オレは一生二の次だ」
たぶん、それは一生変らない。そもそも久美子にとって大江戸一家の面々は、別次元の存在なのだ。慎はその土俵にすら立たせてもらえない。だけど、それでもいい。そんな彼女が好きになってしまったのは、慎自身なのだから。
恨むべきは、大江戸一家の面々でもなく、花婿を蔑ろにする花嫁でもなく、こんな女を運命の女だと錯覚してしまった自分。そんな錯覚すら快感に思えてしまっている自分は、きっともう二度とここから抜け出せないのだろう。
「沢田………」
「でも、たった一人の二の次だろ?」
たった一人。二の次だろうが何だろうが、特別なたった一人。
なんて甘美な響きだろう。
「さわっ………!!」
嗚呼、なんという。
「やっぱりおまえって奴は本当にいい漢(おとこ)だ!愛してるぞ!沢田!もう結婚式だって何だってどんと来いだ!今日は祭りだぞー!」
(で、やっぱり祭りなのかよ……)
なんという可愛い、その笑顔。
花婿が満面の笑みをたたえた白無垢の花嫁を抱きとめると、同じくして控え室の扉のむこうから彼らを呼ぶ声がかかった。

ごくせん|050411