きらきらひかる
パチッ、パチッと小気味よい音がだだっぴろいフローリングの室内に響く。四角い囲碁盤を囲んで胡坐をかくおとながふたり。唯一のこどもはお行儀よく背筋をぴんと伸ばして正座をしていた。
「うんうん。でもなあー佐為、お前が此処でこうしたところを、ツケてみろ」
とん、とヒカルが碁盤の一角を指差すと、ヒカルの向かいに座す年端もゆかぬこどもは、あ!と素っ頓狂な声をあげた。きらきらと輝くこどもの黒い瞳は、白と黒で埋め尽くされた盤面を一心に見つめている。そんなこどもの様子を見とめたヒカルは、ひどく満足げに笑った。
「わかったか? 佐為」
「はい!」
顔をあげたこどもも、満面の笑みだった。
不満なのは、そんな彼らのやりとりを、もうかれこれ一時間以上もずっと横で見せ付けられているアキラである。生涯のライバルと自らが認めた親友進藤ヒカルと、若い才能が織り成す盤面の攻防に心躍らなかったといえば嘘になるが、しかし、いくらなんでも、なのである。いくらなんでも、自分を放っておきすぎではないだろうか、このふたりは。
「ねえ、佐為。そろそろ進藤をお父さんに返してくれないかな?」
アキラに云われて、はっとこども――佐為は顔をあげた。
「わーごめんなさい、お父さん」
すっかり目の前に広がる無限の白黒の世界に夢中になって父親のことを忘れていた自分を恥じつつ、佐為は父に席を譲るべく腰をあげようとする。――と、そこで口を挟んできたのは、ヒカルだった。
「あー気にすんな佐為。俺はお前の父さんより、お前みたいな将来有望なヤツとやってるほうがよっぽど面白い」
「進藤っ!」
「うるさいぞ、塔矢。だいたい返せって何だよ。俺はお前のもんじゃねぇぞ」
「しかし……!」
今日は自分と棋譜研究をしようって約束だったはずでは……。
「いいじゃねぇか。お前とは先週やったばっかだろ」
いやいや、しかし。アキラは不満たらたらな顔で、ヒカルを睨めつける。
「先週は、ヒカルが勝ったんですよね」
私知ってますよ、と手を上げる佐為をヒカルは抱き寄せて、得意げに笑った。
「そうそう。俺の中押し」
アキラはくぅと呻いた。
七年前のことだ。
囲碁界のサラブレッド塔矢アキラの結婚の報せは、その小さな世界になかなかの波紋を呼んだ。見目麗しく、物腰柔らかな塔矢アキラのファンを自称する婦女子たちが、アキラの結婚の報せに一様にして並々ならぬショックを受けている一方で、アキラを知る友人知人の類はアキラの結婚にまた別の意味でショックを受け、固まっていた。
あの塔矢アキラが結婚? いやいや、まさか。
若手棋士のうちのひとりであるW谷氏(匿名希望)などは、「嘘だろう」 と目玉をひんむいた。見目の麗しさとは対照的に、とことん囲碁一筋のカチカチ男の塔矢アキラがよもや結婚をするなどとは想像もできなかったからだ(しかも恋愛結婚だというのだから驚きだ)。そして何より、そんな囲碁馬鹿に人生の先を越されてしまったということが、和Y氏(匿名希望)の男としてのささやかなプライドを木っ端微塵にしてくれたのだ。何もショックを受けていたのは和谷ひとりに限ったことではない。伊角だって、越智だって、ショックを受けた。緒方に至っては、後輩のアキラに結婚を越されたおかげで、大事な大事なタイトル防衛戦のうちの一戦に黒星をつけるはめになったとまで云われている。囲碁界の化石桑原ですら、緑茶を吹き出したとか。
そんな具合に荒れる囲碁界のなかで、「囲碁馬鹿の代名詞の塔矢が結婚? はっはっは、ちゃんちゃら可笑しいぜ」 と鼻で笑ってのけたのは、アキラのライバルであり親友でもある進藤ヒカルである。ヒカルはアキラの結婚を知るや否や、アキラの婚約者を止めにかかったらしい。社会ずれした囲碁界のサラブレッドのこれまでの数々の武勇伝という名の恥話を約一週間に渡って話し続け、結婚を取りやめるよう説得したという。
かくして、三年以内に離婚するに決まっているとの友人進藤ヒカルお墨付きだった塔矢アキラの結婚は、案の定、アキラの妻がアキラを見限るというわかりやすすぎる結果で、三年目にぴしゃりと終止符が打たれた。その後、「ほーれ、見たことか」と偉そうにふんぞりかえるヒカルに、アキラの元妻がアタックしだしたという噂が実しやかに囁かれたが、その真偽のほどは定かではない。
なんにせよ、アキラの離婚騒動から四年。アキラが再婚するという話は出てこないし、ヒカルも独身のままだ。
アキラの僅か三年の結婚生活の間に儲けられたこどもは、男児がひとり。この子については、アキラのたっての願いで、ヒカルが彼の名付け親となった。以後、アキラの息子は塔矢佐為と呼ばれることとなる。
佐為はすくすくと育った。両親の離婚にもめげず、囲碁馬鹿の父に引き取られ、父親に負けじ劣らじと囲碁馬鹿っぷりを発揮する父親の友人知人に揉まれようとも、それはもう素直で良い子に育った。
部屋に差し込む光は、徐々に赤みを帯びつつあった。
佐為はヒカルとの対局で疲れてしまったのだろう――ヒカルの腕のなかですっかりと眠りこけていた。
「佐為は本当にいい子だよなあ」
佐為のぷくぷくとした頬を指先で弄びながら、ヒカルは云った。
「僕のこどもなんだから当然だ」
「馬鹿野郎。奇蹟だよ」
失敬な、とアキラが眉根を寄せる。
「でも、まあ、こいつの囲碁センスは間違いなくお前譲りだよな。ほんとーに血筋って不思議だよなあ、こいつ、お前とそっくりな手をここぞってときに打ってくるんだぜ」
「そうかな」
アキラはくすぐったそうに身体を少し捩った。
「そうだよ」
佐為のさらさらな髪を梳くヒカルはじっと佐為の寝顔を見つめている。やさしく包み込むように。同時に、佐為を通して、どこか遠くに思いを馳せているかのようにも見える。
「佐為もいつか俺たちと同じ土俵にあがってくるんだよな」
ほんのりと口元を緩めるアキラに、ヒカルは続けた。
「そのときにさ、佐為がひとりじゃないといいな。こいつだ!って佐為が思えるようなライバルがいるといいな」
瞼を閉じて、過去を想い出し、今腕のなかにある命を想い、そして、未来を想像する。
「僕と君みたいだね」
「そうだよ。俺とお前みたいに、こいつにもそういう相手がいるといい」
アキラは胡坐をかいたまま背中を少し丸めて、膝のうえに頬杖をつく。目を細めて、親友の腕の中で眠る息子を見つめた。
息子をやさしく見つめるアキラを見やるヒカルは、ふっと口元を緩ませる。そして云った。
「なあ、塔矢。俺、結婚しようと思ってんだわ」
はじかれたように顔をあげたアキラに、ヒカルはにっと歯をだして笑ってみせた。
「あかりさんと?」
「そ。気が早い話なんだけど、俺にもこどもができたらさ、その子が佐為のライバルになれたらいいなって思う。今からだと、佐為とはちょっと年が離れちまうけど」
どうだ、いいだろう?
得意げなヒカルをアキラは呆然と見つめる。ヒカルの話を心の中で反芻するうちに、じんわりと目の芯が熱くなった。
「結婚祝いか出産祝いのどちらかは必ず囲碁セットにするよ」
期待してるぜと云って、ヒカルは佐為の髪をまた梳いた。
ヒカルの碁|070612