そして博士は愛を知る
瞼を閉じても尚、感じることができる。――光の洪水だ。
川のせせらぎ、緑の葉と葉が触れ合うささやかな音、小鳥のさえずり。それらはジーンと縁遠くなって久しい、生きとし生けるもの達の瑞々しい呼吸だった。
なんて。なんて、美しい。
どうしようもなく、心が震える。まるで誰かに呼ばれるように、吸い寄せられる。惹かれる。
その抗いがたい大きな存在を、生前、ジーンは《神》と呼んでいた。
山奥の木漏れ日を孕んだ川面は、まるで極上の宝石のようにきらきらと煌いていた。その目も眩(くら)むような光の洪水の真っ只中、ふらりと覗いたのは闇を凝縮したかのような一対の黒曜石の瞳。川面の眩(まばゆ)い光の美しさに寸分と劣らぬ、しかしどこか陰のある美しさを持った少年だった。
ユージン=ディヴィス。愛称をジーン。少年は生前、他者にそう呼ばれていた。
ジーンは闇に住まう死者である。彼自身、それをよく心得ていた。
ジーンは微かに瞼を落とした。すっかり闇に慣れ親しんでいた彼には、久方ぶりに浴びる光の洪水は眩しすぎたのだ。
それにしても、自分は何故こんなところにいるのか。意図せず光あるところに引き寄せられたことを不思議に思いながら、ジーンは瞼の裏の小さな闇のなかで耳を澄ませる。長く聞くことのなかった様々な音に聴きいった。
徐々に光に慣れてゆく目を彷徨わせれば、自らが川の水面に映りこんでいる存在だとようやっと知る。そうして、水面の向こう側、川辺に佇む人影を見つけた。ジーンとひじょうによく似た人影は、しかし、ジーンよりも幾ばくか年齢を重ねているようで、彼は少年というよりも少年から青年へと移行しているその最中(さなか)にあるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
(――ナル!)
ジーンは万感の想いを込めて、自分とよく似た青年をナルと呼ぶ。誰よりも愛しい、誰にも代えがたい。ジーンにとって、たったひとりの血を分けた双子の弟だ。
ジーンの不幸な死によって引き裂かれたはずの双子は、しかしどうしたことか、ときどきこうして意図せずにこんなにも近くに寄り添うことがある。錆付いた双子のホット・ラインを彼ら自身で繋ぎたいと思ったときに繋ぐにはなかなかの苦労を強いられるというのに。つくづく《神》様は気まぐれだ。
川辺に佇むナルは水面に鏡のように映る片割れの存在に気づいていない。人や人あらざるものの気配に敏い彼にしては珍しい。彼の鋭利な視線は、何処か別のところに向いているようだった。ジーンはその視線の先を徐に辿り、そして辿り着いたものを目に留めてやわらかく口元を綻ばせた。
(麻衣)
ジーンが麻衣と呼んだのは、ナルと同じ頃合の女の子だった。亜麻色の髪が印象的な子だ。
麻衣はその健康的な両脚を小川につけて、何やら作業らしきものをしているようだった。麻衣が水のなかを歩くたびに、水流とはまた違った不規則な波が立ち、ジーンが映る水面を揺らした。
(調査かな?)
ジーンは楽しげに彼らの動向を見つめる。
「ナル! ちょっとくらい手伝ってよ!」
麻衣が川の中から叫べば、
「肉体労働と雑用は調査員の仕事だ。僕のやるべきことではない」
ナルは取り付く島もない口調で言い返す。
(相変わらずだなぁ、ナル)
愛想だとか、女の子には優しくするのが男たるものだとか、そういうものを知らないナルに、ジーンは呆れたようにため息をついた。
「麻衣」
「なによ!」
麻衣が腹立たしげにナルを睨みつけている。
「足元に注意しろ」
思わぬ気遣いに驚き、一瞬目を見張った麻衣に、しかしナルは余計なおまけをしっかり忘れない。
「頭でも打って、それ以上馬鹿になったりしたらどうする」
間髪おかず麻衣の怒号が木魂し、山林の静寂を切り裂いていった。驚いた野鳥が、数羽ほど空を飛び立ってゆくのが見える。川岸のナルは微かに柳眉を寄せ、水面のジーンは苦笑いした。
「お、すごい。コダマだよ、コダマー」
おーんと遠く響く己の声に、麻衣は怒りを忘れ、聞き入っているようだった。
「すごいね、ナル」
この手の感情の切り替えの早さなら、麻衣は誰にも負けない。さっきの怒号が嘘に思えるくらいに溌溂とした笑顔を、麻衣は臆面もなくナルに向けている。
「もう一回叫んでみようかなぁ」
「麻衣」
一般人が耳にしたら百人が百人凍りついているであろうナルの冷ややかな声にも、しかし麻衣はまったく動じない。極地のブリザードの如きのナルをけらけらと笑い飛ばせるほどの、余裕っぷりだ。慣れたものである。つまり、それが彼らの付き合いの長さを如実に物語っている。死んで、時間に見放された存在になってしまったジーンにはいまいちわからない感覚だけれど、ナルと麻衣がふたり並ぶ姿は妙にしっくり見えた。それがなんとなくうれしい。
「ナルの馬鹿野郎ぉとか、給料上げろーとか叫んでみようか」
「谷山さん、仕事をしていただけませんか? 働かない調査員にお支払いする金なんぞ、びた一文ないのですが」
「はーいはいはいはい」
わっかりましたよぅ、と麻衣はふたたび作業をすべく手を動かしだし、そしてふたたび動きを止めた。
「麻衣、手を動かせ」
「……ナル」
「何だ」
いつになっても働かない調査員に、ナルは嘆息する。
「何かなぁ? 何かさ、変な感じしない?」
「……」
ナルは眉をひそめながらも、麻衣に言われるとおりにあたりの気配を探っているようだ。何を隠そう、麻衣のこういうときの野生の勘(一種の特殊能力だ)を、ナルは少なからず信用しているのだ。
ぴくりとナルの身体が一瞬痙攣したように思えたのは、ジーンの目の錯覚ではないはず。ジーンもナルに倣い耳を澄ませた。遠く、微かに聞こえる何か。ジーンは目を細める。何だろうか。さっきの麻衣の木魂?――否、いくらなんでもこんなに長時間も声が残っているものではない。だとしたら、この音の正体は何であろうか。ジーンは真剣な面持ちで、尚もそれに聴き入った。
遠い? いや、近い? 遠くから、近づいてきている?
(―――!! 麻衣!)
胸を過ぎった嫌な予感に、ジーンはすかさず麻衣のほうを見やった。
危ない! 逃げろ! 懸命に叫ぶも、麻衣はジーンに気づく素振りすらみせない。
(ナル!)
鋭くも、縋るような視線を川辺に佇むナルに送れば、ナルは既に麻衣のもとに駆け出していた。ジーンも、水面を挟んでナルに倣うように駆ける。触れることなど、死者が生者を物理的に助けることなど叶わないと知っているのに。それでも、ジーンは駆けずにはいられない。
猛スピードで近づいてくる音。微かな地鳴り。不自然に揺れる水面。やっと麻衣が顔をあげた。
「麻衣!」 ナルが叫ぶ。
麻衣が上流を見上げる。押し寄せてくるのは、大量の水。
ナルが麻衣の身体を引き上げようと腕を伸ばし、ジーンも同じく腕を伸ばしたその瞬間、怒涛のごとく水が流れ込んできた。
(ナル! 麻衣!)
荒れ狂う水面。水面は鏡の役割を失い、そこに映っていたジーンの姿は一瞬にして闇のなかに消え去った。
冷たい感触。あれは夢だったのだと麻衣は、この三日間、幾度となく自分に言い聞かせた。悪夢にも似た白昼夢だったのだ、と。あれはこの茹だるような暑さが見せた幻だったのだ。幻や妄想の類でなければ、何だと言うのだ。挙動不審になっているのが、麻衣だけというのが何よりの証拠だ。自分の妄想の凄まじさに、顔から火が出てしまいそうになる。
或いはこの暑さで脳みそが溶けていたのだ。麻衣も、ナルも。――お互いに。
「谷山さん、具合でも悪いんですか?」
紅茶のカップを片手に、安原は穏やかな声でずばりと切り込んできた。
いまだかつて人の厚意(と思しき言葉)に対してこれほどの憎しみにも近い感情を持ったことがあったか。我が事ながら荒んだ感情に、麻衣は顔をしかめた。心配そうに眉を寄せている安原にはひじょうに申し訳なく思ったことは紛れもない事実だけれど、それ以上に、どうか放っておいて欲しかったというのが、麻衣の正直なところだった。
(本当にごめんなさい、安原さん……)
「あー……えっと……」
麻衣は言葉を濁しながら、安原の向こう側でつい今しがた麻衣が淹れたばかりの紅茶を飲んでいる青年をちらりと見やった。長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳は麻衣たちのことになど見向きもせず、どこか遠くを見つめている。おそらくは、その優秀な頭のなかにインプットされた膨大なデータに意識を向けているのだろう。
まったくこのワーカーホリックめ! 休憩中くらいきちんと休憩しろと言うに!
上司をめいっぱい罵倒したい欲求を辛うじて抑えつつ、一方で今回ばかりは助かったと麻衣は内心ほっと息をついていた。
オリヴァー=デイヴィス博士――愛称ナル(麻衣曰く、ナルシストのナルちゃん)――ともあろう人が、よもやたかがバイトの小娘(年齢差はたったひとつだが)のことを気にかけるわけがないと分かりつつも、彼の意識がこちらにないことをいちいち確認せずにはいられない。そんな自分に麻衣はどうしようもなく憤りを感じる。
「この前の調査の疲れがまだ残ってるとか?」
「あーでもそんな大層な調査でもなかったんで……」
「でも、この前の調査は、谷山さんと所長とお二人だけで行かれたでしょう? 女の子を攫うのが趣味の怖い怖い川の神さまに襲われたっていうし、やっぱり人数が少ないと大変だったんじゃ。この暑さもありますし」
「うーん、どうでしょ。川に襲われたっていっても、ただびしょぬれになっただけだったんですよ、ほんと。うーん……調査が終わってからここ数日、ずっと夜遅くまで大学のレポートとかやってたからかもしれません」 ちょっと寝不足だったかなぁ? と麻衣は小首を傾げてみせる。
「ああ、夏休みの課題ですか?」
「はい」
「ちゃんと睡眠はとらなきゃ駄目ですよ? 谷山さんだっていつも所長に言ってるじゃないですか。ねぇ、所長?」
ひっと麻衣が心のうちで叫ぶよりも早く、漆黒の双眸が麻衣たちのほうに向けられた。
(な、なんてことを、安原さん…!! よりにもよってわざわざナルに話をふることないじゃんかぁ!)
麻衣の心の叫びを余所に、相変わらず何を考えてるのか到底想像し難い瞳とばっちり視線が合った。麻衣はきゅうと胸の奥底が締め付けられるような奇妙な感覚を無理やり頭のなかから吹き飛ばし、泣きたい衝動にかられながらもどうにか笑顔を作ってみせた。そんな引きつった笑いを浮かべる麻衣を見やったナルの口からは、ふぅとため息ともつかぬ声が零れ落ちる。
「それ以上醜い顔になってどうする?」
「ぬぁ……!?」 なーにー!?
「色々と塗りたくっても全く隠しきれてない」
ナルの抑揚に欠いた声の後を、「ああ、クマですねぇ。隠しきれてないわけではないですけどね。でもちょっと酷いかな?」と安原がにこやかにフォローなんだかよくわからないコメントで続けた。
「ちょっとどころの騒ぎじゃないですね」
言いたい放題にも限度ってものがある! 麻衣はきっとナルを睨みつけ、叫んだ。 「うるさい! あたしのクマのことなんてナルに関係ないじゃん! 放っておいよ!」
「その言葉、そっくりそのままお返しますよ、谷山さん」
慇懃無礼をそのまま絵に描いたように、ナルは言った。それが、常日頃ろくに睡眠も食事もとろうとしないナルにいつもお小言をくりかえす麻衣への仕返しなのは、誰が見ても明らかだ。
「あたしはねぇ、ナルのことを心配していつも言ってるの!」
いつものことながら、人の厚意というものを尽く無碍にしてくれる上司には、ほとほと頭がくる。
「僕もあなたのためを思って申し上げたんですがね」
「あんたのは――」
ただの嫌味でしょうが!!
叫び、ナルの黒シャツに掴みかかろうとして。
そして――
あれ?
「谷山さん!?」 意識の遠くで聴こえる安原の悲鳴と。
「……麻衣?」 瞠目するナル。
ああ、なんか珍しいものを見たなぁ、などと暢気なことを思う。
すうっと、麻衣の世界は暗転したのだった。
(あれ?)
麻衣は目をぱちぱちと瞬かせた。視線の先には自宅の天井とは違う、しかしよく見慣れたそれがある。ややあって、先ほどまでナルが座って紅茶を飲んでいたソファの上に自分が横たわっていることに、気づいた。
(あれれ?)
「ナールー? 安原さぁーん?」
身体を起こしてオフィスを見渡しても、ついさっきまでいたはずの彼らの姿がどこにもない。そういえば自分は気を失ったんだっけか。意識が途切れる前のあの感覚を思い起こして、もしかして自分はあのまま眠りこけてしまったのではなかろうか、と麻衣はうんうん唸った。状況から推察するに、どうやら自分はこのオフィスにひとり置いてきぼりにされたらしい。
「ひどいったらもう……」
突然意識を失った自分も、自分だが。如何せんこの扱いはひどすぎやしないか。
(最低だ!)
麻衣は姿を消した男共を心のなかで罵倒した。帰るなら帰る、出かけるなら出かける、と一言言うなり、置手紙ぐらいしてってくれてもいいものを。
ため息交じりにふと窓の外を見やれば、赤い日差しがオフィスの中に差し込んでいた。遠くで夕方のチャイムの音がする。いつの間にそんな時間になっていたのか。
チャイムを聞きながら、麻衣は膝を抱えてソファの上で丸くなった。なんだろう。この寂しさは。夕刻が人の心を沈ませるというのは科学的に証明されていると言っていたのは、ナルだったか。そうとわかっているのならば、こんな仕打ちをしてくれるな、と麻衣はここにはいないナルに毒づいた。
「ナルってば何処にいったのよぅ……」
「何処ってここにいるが」
「うぎゃ!」
突然、背後から沸いて出た美貌を、麻衣はぎょっと見上げて叫んだ。 「なななな何でいるの!?」
不安になって思わず呼んでしまった名前。しかもそれをばっちり聞かれた。不覚にも赤くなった頬は、この夕焼けのせいに出来るとしても、一度聞かれてしまった情けないまでに弱々しい声はもう無かったことにすることは不可能だ。嗚呼、何てことだ!
「ここは僕のオフィスなんですがね? 谷山さん」
「いいいいいるなら、いるって言ってよぅ。驚いたじゃんかー!」
「驚いたのは僕のほうだ」
「何でさ!?」
「突然倒れたりなんかしたのは、何処の何方様でしょうか」
うっと麻衣は言葉を詰まらせた。 「……す、すみませ……ん……」
「おかげで心臓が止まるかと思ったよ」
「はい?」
(えっと、それは……つまり……)
麻衣は漆黒の顔をまじまじと見つめる。それは、つまり、ナルが麻衣の身を案じてくれたと?
「えっと……ナル……」
するりと白い掌が麻衣の頬に伸びてくる。
「心配したよ、麻衣」
聞きなれたはずのテノール。しかしそこに微かに違和感が残る。麻衣は顔をしかめた。
「……ジ……っ!!」
驚いて言葉も出ない。嗚呼、何てこと。何てこと!! 己のとんだ勘違いに気づいた麻衣はさあっと顔色を変え、そして次の瞬間にはくるりと回れ右をしてオフィスを飛び出した――。
「あれ!?」
――つもりだった。
扉を開けたところで、背後にいたはずの漆黒の美少年がすぐ目の前で笑って立っている。麻衣は目を見開いて、がばりを勢いよく後ろを振り返った。と、そこは壁だった。あったはずの扉がない。
と、扉は!? き、消えた!? 「ええ!?」
事務所の外に放り出され、扉も消え、わけがわからず混乱しきる麻衣の背後から、くすくすと涼しげな笑い声がたった。
そうか。そういうことか。麻衣はやっとこの状況を少しながら理解する。目の前にこの少年がいるということは、ここは現実世界ではなく、あくまで、夢なのだ。夢は麻衣のテリトリーではなく、むしろ彼のテリトリー。あらかた麻衣にとって都合が悪すぎるこの一連の不可解な現象は、彼がやってくれたことだろう。
「ジーン!! 悪趣味だよ!」
手の上でいいように転がされているという羞恥と、未だ拭えぬ混乱と、怒りにも似た感情とがごちゃごちゃになって叫ぶ麻衣を余所に、ジーンはナルを同じ容姿で、朗らかに笑いながら言った。 「久しぶり、麻衣。本当に随分とご無沙汰だったねぇ。まあ、二週間くらい前には会ったけど? 僕につかみ掛かってくるほど熱烈だったのに、それ以来、ぜーんぜん会いに来てくれないんだもの」
「ナルみたいな嫌味言わないでよぅ! っていうか、ずっとあたしのとこに現れなかったのは、ジーンのほうじゃん! 自分のこと棚にあげて!」
「うん。僕も寂しくなっちゃってさ、この前久しぶりに麻衣と話したらもういてもたってもいられなくなっちゃって。我慢してた反動っていうのかな? でも、麻衣ってばあれ以来、すっかり僕のことを避けるじゃない?」 寂しくて。と、ジーンは哀愁漂わせながら言う。
「さ……避けてなんかない」
「嘘は駄目」 たった数秒前の哀愁たっぷりの顔は何処に消えたのか。ふふとジーンはにこやかな笑みをたたえながら、そっと麻衣を抱き寄せた。
「ジーン! 放して!」
「駄目」
「ジーン! 放してってば!!」
「ねぇ、麻衣?」
喚き散らす声を無視して、ずいと顔を覗き込めば、まだ少女らしさの抜けきらないその顔にさっと赤味がさした。
「そんなに嫌がることはないんじゃない?」
「い、嫌がってなんか……」 麻衣はしどろもどろになりながら、必死にジーンの腕から逃れようともがく。
「放して、放してって、そればっかりじゃないの。前は手を繋いだって肩を寄せたって抱きしめたって、嫌がったりなんかしなかったのに」
「いいい嫌じゃないよ。嫌なんかじゃない。ででででも恥ずかしいんだってば!」 逃れられないのなら、せめて視線くらいは。麻衣は必死にジーンから顔を逸らしつつ、叫んだ。
「ふぅん?」
嗚呼、心のうちのすべてを見透かされている気がする。麻衣は最後の抵抗とばかりに目をぎゅっと瞑って、ジーンを視界から完全に排除した。
「麻衣?」
「……」
こうなったら、無視だ。
「まーい?」
絶対に、絶対に無視だ。
「麻衣?」
ジーンの息が麻衣の口元にかかる。どうして、たかが夢のくせにこうも感覚がリアルなんだろうか。
「キスしちゃうよ?」
「……なんか人格違わない!?」
仕方なくあけた瞼の向こうでは、ジーンがにっこりと満足げに笑っている。麻衣はぶすっと頬を膨らませ、そしてジーンはそんな彼女の後頭部をやさしく撫でてやった。まるで幼子をあやすかのような仕草に、麻衣は一層不満そうに頬を膨らませた。16歳のまま時を刻むことを忘れたジーンに対し、麻衣は何だかんだともう二十歳も間近だというのに、この扱い。
「そりゃあ僕だって男ですから。好きな子の前では猫かぶりだってしてたさ。なにせ僕はあのナルのお兄ちゃんだからねえ」
「す……好きって」
「僕が、麻衣を」
「……ジーンって本当にナルのお兄ちゃんだったのね」
(いろんな意味で)
じとりと睨まれて、ジーンはあらあらと肩をすくめてみせた。
「で、どうして僕を避けてたの? 三日間も寝なきゃ、そりゃ誰だって倒れるよ」
「だって、寝たら、ジーンがくるじゃないっ」
「それ、まるで僕が夜這い好きの男みたいに聞こえるんだけど」
「そ、そこまでは言ってない」
「まあ実際麻衣が寝た隙を狙って、会いにゆこうとは思ってたけど」
口を真一文字に結んで睨みあげてくる麻衣を見やって、ジーンは苦笑いする。
「あーあー。かわいそうに、ナルってば麻衣のこと心配して、さっきからずっと麻衣の眠り顔を見てるよ」
「なんで、そんなことわかるのっ」
「双子だから」
「冗談もほどほどにしてよ、ジーン! ナルがあたしの心配なんてするわけが……!」
「あるよ」 ふふ、とジーンは笑って言った。 「嬉しいでしょ?」
「!!!」
嗚呼、何てことだ! 麻衣は蒼白な面持ちで、言葉を失う。
「コミュニケーションの能力が幼児並みのナルは騙せても、僕のことは騙せないよ」
くすくすという笑い声とともに、麻衣の耳にすべりこんできたテノールは、その声質のやわらかさとは裏腹に、麻衣にはまるで死刑宣告のような残酷な響きを持って聴こえた。
麻衣は唇を噛み締めた。
方法と手段を選ばず、且つその気にさえなれば、双子の弟のほうを騙くらかすのは可能だと麻衣は密かに思っていた。とは言え、あの聡明すぎる弟を実際に騙せたことは一度たりともないのだが、「まあいつか……」とあのお綺麗な顔を屈辱の色で染めてやる未来を麻衣は想像している。
一方、相手が双子の兄のほうになると、そうもいかない。この柔和な笑みを前にするとそれを騙せる気は全くしないし、騙す気さえ萎えるのだ。肩から力が一気に抜けるというか、この兄の前ではどんなはったりも、どんな虚勢もすべてが無となり、良くも悪くも気づけば素直に笑い、素直に泣いてしまえる。兄にはそういう力があるのだ。
生前、あの扱いにくそうな弟の兄役を立派にやってのけていたというジーンは、ある意味、唯我独尊なナル以上の曲者なのかもしれなかった。
嗚呼、だから、会いたくなかった。あんなにも会いたくて、恋しくて仕方なかったはずのジーンに、麻衣はどうしても会いたくなかった。どうにか彼との接触を避けるために、自分たちの唯一の共有空間である夢の世界に入ることさえ拒否して、必死に抗っていたというのに。
ジーンの前では、自分を偽ることさえできないことを、麻衣は知っているから。
認めたくないものまで認めなくてはいけなくなってしまうから。
「う……嬉しくなんかない……。ぜんっぜん嬉しくなんか……ない!!」
「うーん、そうかー、嬉しくないかぁー」 困ったなぁ、などと言いながらジーンは麻衣の頬に自らのそれを寄せた。
「ナルなんかにねぇ、心配されたって、ちっとも嬉しくなんてないんだから……!」
「でも僕は嬉しいなぁ」
暢気な声は闇に溶けて消えた。いつの間にか、見慣れたオフィスは消え、そこは漆黒の闇に包まれていた。
「どうして、ジーンが嬉しいのさ」 意味がわかんないよ。麻衣は言う。
「だって大好きな女の子が大切な弟のことを好きになってくれたんだからさ」
「好きなもんか!」
「嘘」
「嘘なもんか!」 麻衣は全身全霊で否定をする。
くっつけていた頬を離して、ジーンは麻衣の顔を覗き込んで、茶目っ気たっぷりに言った。 「ナルはお薦めだよ? 頭はいいし、稼ぎは破格だし。それにとてもいい子だ」
「ちっともいくないじゃん。あんな高慢ちき」
「うーん、否定しきれないところが、何とも……。でもナルのこと好きなんでしょう?」
尚も言うジーンに、麻衣がぎゅっとしがみつく。
「あたしは……あたしが好きなのは……!」
桜舞う季節。真新しいセーラー服が嬉しかった春。そっくりで、全然似ていない双子の兄弟に出会った。双子だということも知らなくて、恋してた。夢の世界だけで見れる笑顔が大好きで、大好きで、恋してた。
「あたしは……ジーンが好きだったんだよ! 本当に、本当に好きだったの!」
あの夏の慟哭が蘇る。あれは、嘘じゃない。涙を流しながらの告白は決して嘘なんかじゃなかった。
「ジーンだけが……」
嗚呼、何て愛しい存在だろう。泣きながら全身全霊で好きだと言ってくれる華奢な身体を、ジーンは抱きしめる。
例えば、このまま麻衣をこの世界に引き止めたら――。
眩しい、眩しい、存在。死者はそれを本能的に求める。ジーンとてその例外ではない。
そしてジーンはその意識を双子の片割れにそっと繋いだ。白い部屋、白いカーテン、白いベッド。そこが病院の一室だと、ジーンはすぐに知った。弟はベッドに横たわる少女の傍に寄り添うように、黙って座っていた。その漆黒の双眸はただ眠る少女だけに注がれている。そこに宿る感情に、当の弟自身は目を瞑っている。
例えば、このまま麻衣をこの世界に引き止めたら――ナルはどうするだろうか。
「麻衣、僕といっしょに行こうか?」
「え?」
見上げた漆黒の双眸はひどく真剣な光を宿している。
「ずっとここで、二人で。永遠に」
「ジーン?」
漆黒の髪と瞳は闇に今にも溶けてゆきそうだ。細い肩、細い首。青年とは言いがたく、まだまだ少年の色を濃く残しているその容貌。最初に出会った頃から、何ひとつ変わらぬ……。
闇を微かに揺らす振動。麻衣が震えている。それが、答えだ。麻衣の答えだ。すぐにYESと言えなかったことが、何よりも明確な答えだ。
力を失ってずるずると足元に崩れ落ちてゆこうとする麻衣を何とか抱きとめながら、ジーンは言った。
「麻衣。それがふつうだよ」
麻衣が頭(かぶり)を振る。
「生きてる人間が、死んでる人間に囚われたままだなんて、よくないことなんだよ」 ジーンは諭すように言葉をつむぐ。 「折角、麻衣は次に行けるってところなのに、なんだって後ろに逆戻りしようと頑張るのさ」
ねえ、麻衣。ジーンは言う。
「僕にはこうやって君を支えてやることすらままならない。ましてや、窮地にたった君を腕一本で引き上げてやることなんて、到底出来やしないんだ」
「……見てたの?」 あの数日前の出来事を。
「あそこの水は本当に綺麗でね。まるで鏡のようだったよ」
鏡。それは卵性双生児たるジーンとナルを繋ぐ手段のひとつだ。
麻衣の意識は急速に数日前の事件に向かってゆく。鬱蒼と茂る木々と、そこから垣間見える青い空。蝉の大合唱と、野鳥の囀り、川の冷たさ。川辺の調査中の出来事だった。まるで意思を持ったかのように、突如として襲いかかってきた濁流。ちょうど川の中にいた麻衣は突然の川の変貌の前に立ち竦むことしか出来ず、そして彼女を暴れ狂う川から救い上げたのは、ナルの細腕だった。気づくと、麻衣の身体は驚くほどすっぽりとナルのなかに収まっていた。濡れた服越しに感じる体温。肌に張り付いた黒いシャツが、ナルの身体のラインをなぞる。それは、細くとも、もはや少年のそれではなく。
漆黒の前髪から滴った雫が、そのまま麻衣の血色の良い唇に落ち、途端かっと赤みがさしたの頬。そのときになって初めて気づいた、自分の気持ち。同時に襲い掛かってきたのは、戸惑いと、恐れと、絶望と、後ろめたさ。
どうしてナルだったのか、と。どうして同じ姿を好きになってしまったのか、と。どうしてあの頃のまま、ジーンを好きでいられなかったのか、と。
あの恋を、想い出になんかしたくはなかったのに――。
「うそじゃなかったんだよ」
よく見知ったはずの漆黒の双眸が、麻衣を見下ろしている。同じ双子とは思えぬくらいに、穏やかな顔。でもそこに、真の光がないことを、麻衣は知っている。
闇の住人。呼吸をしない身体。食料を欲さず、痩せも太りも、風邪もひかない、人あらざる存在。――それが、ジーンの正体だ。それでも、麻衣は彼が好きだった。ずっとずっと好きだった。この気持ちが変わることなんてないと思ってた。
「本当だったんだよ」
ぽつり、と麻衣は呟いた。
「大好きだったんだよ、ジーン」
呼吸が、出来ない。
「うん」
闇に浮かぶ白い美貌が、やわらかに笑う。
「ごめんなさい」
「何で謝るのさ」
「ごめんなさい」
それは、あの頃への自分への懺悔だったのかもしれない。あの夏の慟哭を想い出と変えてしまった今の自分からの。なんてひとりよがりな「ごめんなさい」だろうと、情けなくて、くやしくて、涙があふれて来る。
「麻衣」
「今も大好きなんだよ」
嗚咽が、混じる。
「僕もだよ、麻衣」
「ジーンの笑顔も、やさしさも、大好きなの」
視界が、歪む。
「僕なんかより、実はナルのほうがよっぽどやさしい子だって、麻衣は知ってるくせに」
大きく見開かれた瞳が瞬きを拒むのは、目尻にたまった涙がこぼれおちないようにするためだ。
「……ナルがやさしいわけないじゃんか。あんな高慢ちき」
「そんな高慢ちきさんを好きになってくれてありがとう」
それとね。ジーンは続ける。
「ナルも色々となれないことに途惑ってるだけなんだ」
「ジーン!!」
「大好きだよ、麻衣。だからナルをよろしくね」
「意味がわかんないってば、ジーン」
ジーンはこつんと額を麻衣の額につけた。
「大好きな麻衣に、ナルをあげる。麻衣だから――あげる」
麻衣は瞠目し、我慢していた涙が耐え切れずに頬を伝った。
「ナルは嫌だって言うに決まってるじゃん」
「さあ、どうだろうねぇ?」
ふふ、とジーンは笑い、そして麻衣の背中を押した。
「さあ、今日はもうお帰り。高慢ちきさんが痺れをきらして、もう大変だ」
「ナルがどうかしたの?」
「癇癪おこしてる」
「え!?」
「さあ……」
途惑う麻衣に構わず、ジーンはさらに彼女の背を押す。否応なしに闇に溶けてゆく麻衣の身体。あまりに急な別れに戸惑い、どうにかしてジーンのほうを振り返れば、彼はあのやさしい笑顔を浮かべていた。
「またね、麻衣」
ジーンのやわらかい少年声。それを最後に麻衣の意識はふたたび闇に沈んでいった。
――僕はモノじゃないんだが。
麻衣が消えるとほぼ同時に、闇の中からすっと現れたのは、片割れの弟だった。
「やあ、ナル。よくここがわかったね」
「よくもぬけぬけと」
兄弟の再会を喜ぶジーンとは対照的に、ナルのほうはひどく不機嫌そうな表情を浮かべている。
「コンタクトを取ってきたのは、お前のほうからだろう? ジーン」
白い病室で麻衣の目覚めを待っていたとき、何かに呼ばれるようなものを感じた。それは強制的なものでは決してなく、ただ静かにナルを誘(いざな)うだけのものだったけれど、それがどうにも挑発めいたものとしてナルの神経を逆撫でた。眠る麻衣の顔を見やれば、ちょうどタイミングよく動いた彼女の唇。――ジーン、と、ナルの片割れを小さく呼ぶソプラノ。
気配を感じ、今度は背面にあった窓硝子を見やれば、そこにうっすらと映りこむ闇。闇の中で、膝から崩れ落ちている少女を抱きとめているのは、紛れもない己の半身。「馬鹿め……」 苦々しげに吐き捨てられたそれは、いったいどちらに対する言葉だったのか。
――ナル。
硝子のなかの片割れが、己の名前を呼ぶ。こちらに来い、と漆黒の瞳で訴える。そしてナルはそして不承不承とその誘(いざな)いに身を委ねたのだ。
「ご苦労様。麻衣に迎えに来てくれたんだよね? でもね、ちょっと遅かったみたいだ」
「僕が遅かったんじゃない。お前が僕を散々この空間のなかで迷わせた挙句、僕がここに着いた途端にあいつを帰したんだ。しかも僕が迷っている間に、ご丁寧にお前たちの声だけは聞かせてくれて……」
盛大なため息をついて、ナルはくしゃりと前髪をかきあげた。慣れぬ空間で走り回りまわっている間中、耳に付きまとっていた、兄と麻衣の会話。面倒なものを聞いてしまったと、らしくもなく動揺している自分がいる。
「僕、振られちゃったよ」
おどけた様子の兄に、弟はその柳眉をぴくりと寄せた。
「慰めてくれる?」
「ふざけるな」 ナルはその美貌を歪めて、呻くように言った。 「ふざけるなよ、ジーン」
「ふざけてなんかいない」 ジーンはかぶりを振って否定する。 「僕がふざけてなんかいないことは、君にはわかるはずだよね」
「わからないな。何が振られちゃった、だ。お前が麻衣をそういう方向に仕向けたんだ。馬鹿なあいつを操作するなんて、お前には造作もないことだろう」
闇の中、ひとり聞いた、兄と麻衣の会話が、ナルのなかでリフレインされる。
「それは、ナル、麻衣に対していかんせん失礼すぎじゃない? 僕はあくまで麻衣が麻衣自身で抑え込もうとしていたものを、自然な形にしてあげただけ」 つまり、あれが麻衣の紛れもない本心だよ。ジーンは真っ直ぐ弟を見据えながら、言い切った。 「麻衣は君のことが好きなんだ。思い悩んで何日も眠れないくらいにね」
「違う」
「違わないよ」
「ありえない」
「ありえないことなんてない」
「……あいつはお前が好きなんだ。あいつは、お前のことが好きだから……お前の言うことを馬鹿みたいに素直に聞くんだ」 極限まで感情が抑えられた声が、それでもどこか言い訳染みたものを拭いきれなかったことを、当の本人ははたして自覚しているのか、していないのか。
おやおや、とジーンは眉をひょいとあげてみせた。 「それは嫉妬?」
ナルの神経をごく自然に逆撫でさせるのは、ジーンの十八番だ。ナルとて当然それを承知しているからこそ、強靭な理性で荒れ狂いそうになる己を縛り付ける。
「……もし仮に、お前の言うとおり麻衣が僕のことを好きなのだとしても、僕には迷惑なだけだ」
「迷惑? 何故?」
押し黙ったナルを、逃さないとばかりにジーンはその漆黒の双眸で見つめる。
「兎に角僕には迷惑だ。ジーン、僕は帰る」
「逃げるの?」
「無駄な話に付き合ってられるほど、僕は暇じゃない」
「どこが無駄なのさ」
「僕には関係のない話だ。麻衣が誰を好きであろうと、お前が麻衣にいくら構おうと、僕には関係ない」
「大有りだよ。麻衣は君のことが好きなんだ」
「僕を巻き込むな」
すっとジーンの面から、表情らしい表情が消え去った。まるで鏡を見ているかのような、その顔。ただ幾ばかりか、ナルのそれより、ジーンのそれは幼さが残っている。16歳のまま時を刻むことをやめたジーンから、その幼さが消えることは、もうない。
「身代わりは御免だ」
「麻衣は僕の代わりに君を選んだわけじゃない」 そりゃ双子だから顔はよく似てるけどね。ジーンは静かな声は冴え冴えと闇に響く。 「一度だって、麻衣が君をジーンとして扱ったことがあった?」
すっと伸ばされたジーン寮腕が、ナルのそれぞれの肩にかけられる。何にも代えがたかった半身が、そぐそこにいる。
「そうじゃない」 ナルは呼吸で、一度言葉を切った。 「お前の代わりに、僕が麻衣を選んでやるなんてことは出来ないと言ってるんだ」
ジーンは驚いたように微かに目を見開いた。ナルの言葉が予想の範疇を超えていたからだ。
「僕はお前じゃない」 同じ顔を睨み付け、ナルは言った。
「当たり前だね」
「僕はお前のように社交的じゃないし、やさしくなんて笑えない。そうなりたいとも思わない」
「君の兄たる僕としては、ナルには少しは社交性を身につけて欲しいものだけど」
「お前の望むように麻衣に接することなんて、僕には出来ない」
「何、それ」 ジーンは心外だとばかりに弟たるナルを見やった。 「僕が君に僕の代わりになれと望んでいるとでも、君は思ってるわけ? 僕のために君の身体を奉げろとでも?」
「違うのか」 語尾は疑問系でも、そこには断定の響きがある。違わないだろう、とナルは言外で訴えた。
「違うよ。ぜんぜん違う」
「お前はあいつのことが好きなんだろう?」 さっき散々麻衣に向かって好きだ好きだと連呼していたではないか。ナルは呻き声ともつかぬ、低い声音で言った。
「好きだよ」
ジーンは恥ずかしがるような素振りなど微塵も見せず、臆面もなくそう言ってのける。
「でも僕は死んでる」
凛と響く声に、ナルは息を飲んだ。言葉はひどく悲しいものであるはずなのに、そこに悲観的な響きはなかった。
「死んだ人間が生きてる人間を縛り付けることほど良くないものはないってこと、君ならよく承知してるはず。僕は、君や麻衣を縛り付けるつもりは毛頭ないよ。僕のエゴで君たちの生きた肉体を、精神を、蝕むのは、僕の本意じゃない」
「そこまで言うんだったら、とっととあるべきところに還れ」
ぞんざいに放たれた言葉は、しかし、どこか作り物めいた笑みの前で一蹴された。
「僕が還って、それでナルが素直に麻衣の気持ちも自分の気持ちも認めてくれるっていうんだったら、僕はよろこんでそうするよ」
「僕の気持ち?」
幼さを残した漆黒の双眸がうっすらと笑った。 「麻衣の唇は柔らかかった?」
「ジーン!」 さっとナルの表情が気色ばむ。
「何をそんなに慌てるのさ」
「あれは、事故だ!」
「事故? ナル、僕は確かにあそこにいたんだよ。あの綺麗な水面に映る君を介して、君たちを見てた」
濁流は一瞬で去り、川はすぐにもとの穏やかさを取り戻した。ジーンは今一度、きらめく水面の上でその双眸を覗かせた。川辺に佇むナルと麻衣を目に留め、彼らが無事であったことに安堵する。そして―――。
「事故というのなら、確かに事故だったのかもね。理性的な君らしくもない衝動的な行動だったんだろうとは僕も思う。それで?」
何を促されているのかもわからず、ナルは虚ろな瞳をジーンに向けた。
「あの後、川のなかの僕と目が合った瞬間、何であんな顔したのさ」
そこに責めるような声色はまったく含まれていない。それが余計にナルを追い詰める。ナルはたまらず、きつく瞼を閉じた。
「違う」
川のなかから引き上げた身体の思いもよらぬ華奢さ。怖かったとすがりついてくる腕の細さ。あの細い腕が、弱っていたナルの背中を撫でてくれたときもあった。でもお人よしの彼女はナルに限らず、弱っている人間がいたら、ときには幽霊にまでその腕をおしみなく差し出してしまえるのをナルは知っている。だってずっと隣で見てきた。ずっと、ずっと。
そしていつからか、あの腕が自分のためだけにあればいいのに、と思ってしまった。
思ってしまったのだ。
「何が違うの」
「違うんだ、ジーン」
「何でそんなに否定したがるの」
ねえ、何で?
「ナル?」
目を開けば、見慣れて久しい栗色の瞳がおどろくほど間近にあった。ナルは息をつめる。と、同時に顔をしかめる。ベッドの脇のパイプ椅子に座ったまま白いシーツに突っ伏すように寝ていたらしく、首筋と背筋が酷く痛んだのだ。
「……お、起きた?」
「……」
ナルは無言で身体を起こし、不機嫌さも顕な表情で己の首をさすった。病室の窓硝子は外の景色を透かすだけで、そこに闇は、ない。
「叩いても叫んでも全然起きなかったんだよ」
「……叩いたのか」
うっと麻衣は言葉に詰まって、視線を泳がせた。 「お、驚いたんだよぉ」
ナルが癇癪を起こしてるだなんてジーンが最後に言うから、覚悟して目を覚ましてみれば、ナルは癇癪どころかベッドに突っ伏して寝息を立てていたのだ。驚かないわけがない。しかも、ナルの寝顔がときどき苦しそうに歪むものだから、それはそれは麻衣はナルを心配したのだ。
「驚いたのは僕のほうだ」
ナルの言葉に、軽いデジャブを覚える。ついさきほども似たような会話をしなかったか。兄のほうと。
「突然倒れるな。いい迷惑だ」
後続の、歯に衣着せぬもの言いは、紛れもないナルのものだった。
「す、すみませんでした……」
「で? ジーンと楽しくやってたみたじゃないか」
「はい?」
「僕のいないところで、随分と勝手なことを決めてくれたようで」
んな…、と目玉をひんむいて驚いてみせる麻衣に冷ややかに視線を送り、ナルは尚も続けた。 「ジーンから随分大層なものを貰ったようで」
「な、何で……!?」
「僕はモノじゃないんですがね? 谷山さん?」
「だから何で―――!? ジ……!!」
「病院で叫ぶな」 喚く麻衣の口を掌で塞いで、ナルは眉を一層不快そうにひそめた。ジーン、とその名を呼ぼうとした麻衣の口。悪いが、ナルにとって今は一番聞きたくない名前だ。しかも、よりにもよって麻衣の声で。
「んーんーんー!!」
がっちりと口を塞ぐナルの大きな掌を、麻衣は懸命に取っ払おうともがいた。叫ぶなといわれて、これがこれが叫ばないでいられるか。一体全体、どうしてナルが麻衣とジーンのやり取りを知っているのか。大方、ジーンが何かやらかしたのだろうけれど、それにしたって、ナルはあのやり取りのいったいどこまでを知っているのか。問い詰めたいことは尽きない。
そして何よりも、口を塞がれているだけとは言え、ナルの身体の一部と自分の身体が一部が触れ合っているということに、麻衣はどうしようもなく居たたまれない。
兎に角、何としてでも、この状況から脱出せねば! 麻衣は尚も懸命にもがく。
自然と零れ落ちたため息は、ナルのものだった。己の右手を必死に取り払おうと、必死にもがく麻衣の顔はまるで茹蛸のようだ。なかなか素直に大人しくなろうとせず悪あがきを続ける麻衣に、次第にナルはその美貌を歪ませる。それは紛うごとなき、嫉妬に煮えくり返った男の顔だった。
ジーンの言うことなら、大人しく聞くくせに。
「んー!」
「うるさい」 忌々しげに呟くが早いか、手が動くが早いか。ナルは己の右腕にかかっていた麻衣の両腕を器用に左手で絡め取ると、今度は右手を麻衣の口から離した。そして、麻衣が自由になった口で叫ぶよりも早く――。
「ん……っ」
――彼女の声を、今度は己の唇で封じ込めた。
(な、に?)
麻衣は目を見開く。視界を覆うのは、底冷えするほど美しい青年の顔。押し付けられた唇は、漆黒の前髪から滴り落ちた、あのときの水滴よりも、そしてそのとき一瞬だけ掠めた唇よりも一層冷たく思えた。だのに、冷たい唇が触れるそこから、熱が麻衣の身体中にかあっと広がってゆく気がする。身体中のありとあらゆる血管を通って伝わる熱。冷たいのに、熱い。わけのわからない感覚に、徐々に硬直しきった麻衣の身体から力が抜けてゆく。しっかりとナルに押さえ込まれた両腕には、彼に押さえ込まれなくとも、抵抗するような力など残ってやいやしなかった。
完全に力の抜けきった麻衣を確認すると、ナルは麻衣の腕の拘束をゆっくりと解いていった。麻衣の腕がぱたりと乾いた音をたてて白いシーツの上に落ちる。
さらり、とナルの漆黒の髪が麻衣の前で揺れる。わずかに離れた、唇と唇。微かに交わった吐息は、言いようのない熱を帯びていた。感情の読み取れない漆黒の双眸と、未だ判然としない麻衣の目が合う。
「ナル……?」
ふたたび降ってきたキスは、先ほどの強引なものとは違い、ひどく遠慮がちなものだった。麻衣の心のうちを探るように重ねられる、それ。やさしく、触れるか、触れないか、離れるか、離れないかの微妙な境で行ったり来たりを繰り返している。気づけばひんやりと冷たい掌が麻衣の頬に添えられ、もう片方は麻衣の亜麻色の髪の合間に差し込まれていた。
シーツに投げ出された麻衣の腕が、徐に、あがる。細い指がナルの腕に軽く触れれば、微かに彼の身体が震え、筋張った背中に腕をいっぱいに回せば、キスはより一層深いものとなった。
「……な……、何すんの」
「……キス」 ナルのテノールは、こんなときでも、抑揚が欠落している。
「何てことしてくれるの」
「嫌なら抵抗すればいい」
抵抗しなかったくせに。人を馬鹿にしたような響きのある声に、麻衣は目の奥がかっと熱くなるのを感じた。
「ずるいんだから!」
「高慢ちきさんだからね」
「……!!」
「僕のいないところで、好き勝手やってくれたお礼だ」
皮肉たっぷりなナルに、麻衣は顔を歪めた。
「いいよ。僕はお前のモノになってやる」
なってやる、とはナルらしい何処までも高飛車な物言いだ。
「そのかわり、麻衣は僕のモノだ」
オレンジ色に染まった病室に、ナルのテノールが沈んだ。
ムードも何もあったものじゃない声色は、冷たく、しかしひどく甘かった。まるで毒のように、痛みさえ伴って麻衣の身体中を侵食してゆく。
微かに開いていたガラス窓の隙間から紛れ込んできた風が、カーテンを揺らし、一緒に夏の匂いを運び入れてくる。遠くで鳴る夕方のチャイム。時間は巻き戻り、麻衣は冷たい川に足を浸けていた。鬱蒼と茂る木々。そこから垣間見える青い空。蝉の大合唱。野鳥の囀り。水流の音。滴る水。見下ろす、漆黒の双眸。触れ合った唇。呼吸は止まり、漆黒の瞳の奥に吸い込まれてゆく。さらに時間が巻き戻る。闇の中、聞こえたのは、少女の慟哭。それが己の声だと麻衣は気づく。相手の存在しない告白は、闇に虚しく溶けるばかりで、それが一層悲しかったあの夏。そして、隣には、やはり無表情な漆黒。気づけばいつだって、彼はそこにいた。それが彼の意思なのか、それとも麻衣が彼の隣にいることを望んだのか、或いは、運命の悪戯か。はたまた、ジーンのおふざけか。
麻衣は呼吸さえ忘れて、ナルを凝視した。
「ジーンは……。ジーンはどうするの……」
「どうもしない」
「ジーンの居場所はどうなっちゃうの」
「僕たちが今更どうこうなったところで、あいつの場所が無くなるものか」
「忘れたくない」
「忘れるわけじゃない」
「想い出になんかしたくない」
「現在より前のことはすべて、思い出だ。過去だ。過去ばかり見てたって、どうしようもない」
しかめっ面で、らしくもないことをさも当然とばかりに言ってのけるナルを、麻衣は拍子抜けた様に見つめた。
「……みょ……妙にポジティブだなぁ、ナルらしくもない」
「現状の非生産性に気づいただけだ」
「ナルが生産的な人間だったなんて、初耳だ」
「馬鹿なくせにぺらぺらと……」
常日頃から馬鹿な女だと思ってきた。でも、そう――
「ナルだってバカじゃん」
まったくもってその通り。自分も大概頭が悪い人間らしいとナルは思った。
ときはほんの少しさかのぼる。
馬鹿だなぁ。柔和な笑みを浮かべて、双子の兄は言った。ナルは本当に馬鹿だ。弟が不快そうに顔を歪ませようが、どこ吹く風。兄は自分より背の高い弟を抱きしめた。愛しむように。
「君は麻衣を馬鹿だ馬鹿だって言うけれど、君も大概馬鹿だよ。何度も言うけどね、僕は死んでるんだよ。想い出になればこそ、死者たる僕がナルと一緒に歩むことはもう叶わない。今、君の一番傍にいるのは誰さ。見えているものから、目を逸らさないでよ。見ないふりなんてしないで。気づかないふりなんてしないで。僕に気を遣ってるなんていったら、それこそお門違いも甚だしいよ。僕が望むのはそんなことじゃない。君にとって僕がやさしい想い出になればいいと僕は思うけど、でもどうしたってやさしいだけになれないこともわかってる。だからといってすべてを忘れてくれなんて言わないよ。忘れてほしいとも思わない。ただ、前に行かないわけにはいかない君が、僕にとらわれて大切なものをみすみす逃してしまうのだけは嫌なんだ。僕のことはたまに思い出してくれるだけでいい。泣きたいときには泣いてくれればいい」
そして願わくば、君が泣きたいときにひとり寂しくないよう、君の横にあの心優しい女の子がいてくれると嬉しい。あの子は君と一緒に泣いてくれるし、やさしく君を抱きしめてやれるもの。
ジーンはナルを包んでいた腕を解く。
「それで? お前はどうするんだ」 ナルが言った。
「とっとと還れと言ったのはナルじゃぁないか」
「還るのか」
「還らなきゃ。今とは言わないけど、いつか」
言葉のなかに微かに含まれた“寂しさ”という感情が、ナルを締め付ける。
「大好きだよ、ナル。世界中の誰よりも」
「麻衣よりもか?」
「おやまあ、嫉妬ですか?」
「簡単にあげるとか、あげないとか言うな。僕はモノじゃない」
苦虫を潰したかのように顔の弟を、兄はその鮮やかな笑顔で一蹴した。
「麻衣だからだよ。麻衣は特別だから」
愛してるよ、僕のナル。――それは言外の響き。
ナルは今日一番深く、そして暖かな息を吐き出した。 「せいぜい地縛霊にならないうちに、還るんだな」
「気をつけるよ」
「是非そうしてくれ」
「愛してるよ、ナル」
「お前は何でそう……」
麻衣にも同じ言葉を繰り返していたジーンを思い出して、ナルは心底辟易したように肩を落とす。
「愛してるってば」
「馬鹿だな」 ぽつりとナルは呟いた。
「ナルが?」
「お前が」
「そうかもね」
そろりと腕を伸ばしたのは、弟のほうだった。それはきっと片手で数えるほどしかなかった、無愛想な弟からの抱擁だった。
「本当に世話のかかる」
「ナルにだけは言われたくないなぁ」
自分の身体よりも一回りも大きくなった身体を抱きしめ返して、ジーンは苦笑いを溢した。どうしたって拭いきれない寂しさや、やりきれなさは、しっかりと片割れに伝わってしまったようだ。本当はもっともっと彼と共に歩きたかった。そこにあの太陽のような少女を加えて。あるはずのない未来を夢見る。
「愛してるよ」
「くどい」
「だって本当のことだもの」
「こうもくどいと、ありがたみの欠片もなくなる」
「君がありがたいなんて思う事があった?」
からかい交じりの言葉は、弟の眉間に皺を増やすだけだ。
「愛してるよ。ナル――また、ね」
「また、があるのか」
「ちゃんと結果報告をしてもらわなくちゃあ」
「報告?」
「何のために僕が儚い霊体に鞭打って奔走したと思ってるの。君たちのためでしょうに。そのお礼が結果報告だけだなんて、すっごく安いものでしょ。ナル、僕から逃げられるなんて思わないでよね」
思ってなどいない。だからこそ厄介なんじゃないか。お前の怖さを一番よくわかっているのは、この僕だ。ナルは心のうちで呟く。
「楽しみにしてるよ」
「……了解した」
少年らしさの抜けない兄は軽やかに笑い。成人した弟は少々憮然とした表情で。どちらかともなく、互いに互いの頬に唇を寄せ合った。幼い頃、寝る前にかわしあったおやすみの挨拶のように。
そしてナルは闇を遮断した。
街頭が点きはじめ、ネオンが目に一層痛くなる渋谷の人ごみを抜けるように、ナルと麻衣は歩く。はぐれてしまわないようにしっかりと握られた掌は、人で溢れかえった渋谷駅に降りたときから、ずっと結ばれている。麻衣は栗色の瞳を隣を歩くナルにそっと向けた。この蒸し暑さのなか、季節はずれの真っ黒な服を着込んでいるにもかかわらず、その横顔はいっそ涼しげだ。握る掌にきゅっとほんの少し力を加えれば、不機嫌とも思える漆黒の瞳が、麻衣のほうを見やった。
「何」
「……なんでもありま、せん」
何となく握ってみたかっただけです。そっと心の中で呟く。
ずっと繋ぎっぱなしだった二つの掌は既に、じっとりと汗ばんでいたけれど、お互いに振り払おうという素振りはみせない。それが、女の子のほうにとってはたまらなく嬉しい。ただでさえ感情表現が乏しい青年相手だと、こういう些細なところで、極上の幸せを味わえるのだ。
「麻衣」
「何」
「お前、ジーンに散々好きだの何だの言ってたみたいだが」
げほ、と麻衣は咳き込んだ。
「ちょ、ちょっと、ナル。あたしね、それについて色々と聞きたいんだけども……」
実は、聞くのも恐ろしいんだけど。
「い、いったい、どっからどこまで聞いてたの……」
「さあ」
「どうやって聞いてたの。どこで聞いてたの」
「あいつが色々と小細工を」
やっぱり!
「いつかみてなさいよ……! ジーン」 握る掌にぎりぎりと力を加えて、麻衣は呪いの言葉を唱えた。
「話を戻してもいいですか、谷山さん」
「どーぞ!」 いったい何の話だったかもろくに考えず、麻衣は未だ冷めやらぬ怒りのままに、いささか刺々しい声音で返事する。
「ジーンに言って、僕には何も言ってくれないのでしょうかね?」
何を?
呆けた麻衣に、ナルが例によって例のごとく、いつもの嫌味ったらしい笑顔を向けた。
「Say you love me?」
流暢な英語の意味を日本語に咀嚼すること数秒、麻衣の声にならぬ悲鳴が、群青色に染まりきりつつある渋谷に響き渡った。
悪霊|2010.10.23