たぶん空耳だった。いや、空耳で違いなかった。さもなくば、神さまの性質(たち)の悪い悪戯だ。だってナルの視線はもう手元の研究資料に注がれていて、呆然と立ち尽くす麻衣になんぞに見向きもしない。
 窓ガラスから差し込む朝日が眩しいな、なんて思いながら、麻衣はふらふらとダイニングルームをあとにした。腕時計は既に8時を回っている。早く靴を履いて、家を出なければ、一限目の講義に遅刻してしまうのだ。
 麻衣は狭い廊下を覚束ない足取りで進み、アッチにぶつかりコッチにぶつかり。やっとの思いで辿り着いた玄関先で、今度こそ強かに頭を壁に打ち付ければ、ゴンっと鈍い音がフロア中に響き渡った。

 その鈍い音はダイニングルームで大好物の論文を貪っていたナルの耳にも届いた。それは、ナルが思わずはっとするほど、神経にさわる嫌な音だった。ナルは訝しげに眉をひそめて、音源の方向を見やる。
 フロアはしんと静まり返っていた。いっそ不自然なほどに。
 非日常的な鈍い音を最後に、毎朝聞こえてくるはずの元気な「いってきます」の声も、彼女が玄関扉を開け閉めする音も、今朝は聞こえてこない。
(あいつは何をしてるんだ……)
 ナルが嘆息とともに資料をテーブルに置き、廊下に顔をだしてみれば、玄関先で蹲っている彼女がいた。頭を押さえて呻いる彼女を見やって、ナルは先ほどの鈍い音の正体を知る。
(ぶつけたんだな……)
 朝から落ち着きのない彼女に、心底呆れたのだった。

 近づいてくる足音がある。きしきしと、裸足がフローリングを蹴る音だ。麻衣は鈍痛に呻きながらも、必死にその音に耳を澄ませていた。彼が近づいてくる気配に気づきながらも、麻衣が顔をあげてやらなかったのは、自分が彼の前で醜態を晒していることが情けなくて仕方がなかったからだ。
 足音が、気配が、彼の息遣いが、蹲る麻衣の近くまで迫っていた。
 それにしても痛い。
「何をやってるんだ……」
 呆れきった声が頭の上から降ってくる。すごそこにいた気配が麻衣の横で屈んだのが、衣擦れの音でわかった。
 膝と膝の間に顔を埋めている麻衣の後頭部に触れるあたたかな感触。
「大丈夫か?」
 男のくせに細い、しかし女のそれとは明らかに一線を画す骨ばった指が、麻衣の亜麻色の髪を梳いた。その感覚に全身を戦慄かせながら、いったいぜんたい今日という日はなんていう日なんだ、と麻衣は思った。
「麻衣?」
 抑揚に欠いた声の奥底に、微かに困惑の色を聞き取った麻衣は、膝の間で溜息のように深い笑い声をひとつ立てた。
「う……嬉しくて……」
「は?」
「ナルが、お、お、おめでと……って……う、嬉しくて……」
 目頭が熱い。鼻の奥がつんと痛む。
 泣くな、我慢しろと、思えば思うほどに、身体が震える。
 きっとそんな麻衣に、鈍感な彼だってさすがに気づいたことだろう。
「馬鹿か……」
 くだらないと言い捨てる彼にむかって、麻衣は噛み付くように叫んだ。
「う、うっさい!」
 もらったのは“おめでとう”のたった5文字。でも、朴念仁にして唐変朴のオリヴァー・ディヴィスの口からそんなことばを聞かせてもらえる日が来るだなんて、こんな奇蹟はきっと他にない。たとえ、その5文字が、彼のほんの気まぐれの産物だったとしても。彼が誕生日だなんてとるに足らないことだと心の中で思っていようとも。うれしいものは、うれしい。
 が、しかし同時に、くやしい。彼がくだらないと言い捨てたものに、泣くほど喜んでいる自分がくやしいのだ。彼に誕生日を祝ってもらおうだなんて思っちゃいない、と物分りのいいことを口先では言いながらも、実際はたった5文字のことばをこんなにも待ち焦がれていた。そんな自分に、今日はじめて気づかされた。それがたまらなく、口惜しい。

「な、なんかもう、マジでむかつく!」
 なんでこんなにうれしいのと。
 なんでこんなにしあわせなのと。
 うれしい、しあわせ、と云いながらも、くやしいくやしいとハンカチでも噛みそうな勢いの麻衣を前にして、ナルは困惑せずにはいられない。
 谷山麻衣という少女はいつだってナルの理解の範疇を超えている。
「もう、本当にありえないよ!!」
「……とりあえず、泣きやんだらどうだ」
 麻衣のナルの常識を超えた行動以上に、彼女の涙はナルの動揺を誘うのだ。ナルは麻衣の涙がすこぶる苦手だった。
「とまらないんだよ!」
 あんたのせいだよ責任とれこのヤロウ、と半狂乱の麻衣は無茶苦茶なことを言い出す。その上、折角祝いのことばをプレゼントしてやった人間に対して、馬鹿だの、最低だの、信じらんないだのとあらんかぎりの罵詈雑言を並べ立てるのだ。そのくせ、麻衣の手はナルの腕をしっかりと掴んだまま、離そうとしない。
 滅茶苦茶な麻衣に、ナルは呆れてものも言えないでいた。
 ふと、ナルの首に麻衣の腕が絡みついてくる。真夏に暑苦しいと思いつつも、ナルは麻衣の抱擁を甘んじて受け入れた。「誕生日プレゼント代わりで丁度よいかもしれない」だなんて、らしくもないことをナルが考えたのは、きっと麻衣が大泣きしているからだ。つくづく、ナルは麻衣の涙に弱い。
 涙交じりの甘ったれた声音が、ナルの名前を呼ぶ。麻衣がナルにこんな声音を使うことはわりと珍しい。ナルは苦笑しつつも、亜麻色の髪に手を添え、上から抱き込むように麻衣の身体を己の腕のなかに収めた。
 麻衣はナルにしがみ付いたまま、泣き止まない。シャツの胸元にじんわりと染み込んでくるあたたかいものがあった。
「あたし、生まれてきてよかったよぉぉぉ」
 大げさな……、と思いつつも、ナルは今日という日と、どこにいるかもわからない神さまに少しだけ、ほんの少しだけ感謝した。



20070705脱稿