「……ない」
 ないないない無い! なんで。どうして。麻衣はしわくちゃのシーツの上で頭を抱えた。
「……ない」
 あるべきものが、ない。昨晩脱いだ服はどうした? 脱いだはずだ。脱いだはずなのだ。だって、麻衣は今、その肌に何も身に着けていない。
 そしてヤツもいない。昨日の夜、麻衣の服を不器用に脱がしていったヤツは? ヤツは何処にいった。いったい何処へ。
 自分のものでないベッドにたったひとりで置いてきぼりにされた心許無さは、程なくして、怒りへとベクトルを向ける。ふつふつと湧き上がる感情の赴くままに、麻衣はベッドからタオルケットを剥ぎ取った。「あんの冷血漢め」と内心で吐き捨てながら、そのタオルケットを一枚、頭の上から被り、身体にぐるぐると巻きつけて、「さあヤツをとっちめるぞ」とばかりに麻衣は寝室を飛び出した。
 眠る恋人をベッドの上に放置したまま、ヤツは何処ぞに消えやがった。いったいぜんたい何処へ。

 ―――がっこんがっこん。
 フローリングの廊下に響くこの音の正体はなんだ。
 開けっ放しの扉の向こうから聞こえる、騒音。浴室の隣で大口開けて、騒音を撒き散らす洗濯機を見つけて、麻衣は嘆息を零した。急速に怒りの感情は萎えて行き、かわりに脱力感が麻衣を襲う。ようやく飲み込めてきた状況に、麻衣は乾いた笑い声をたてた。
 いつも麻衣が回しているはずの洗濯機が、彼女がスイッチを押す前に稼動していたということは、つまりこの部屋の主がスイッチを押したということなのだろう。さもなくば、何処かの親切な幽霊さんがこっそりスイッチを押して、洗濯機を回してくれたとでもいうのか。麻衣の下着までご丁寧に放り込んでくれたとでもいうのか。
 ―――がっこんがっこん。
 騒音は暢気に続く。
 麻衣とてわかってはいるのだ。おそらくは、ヤツがヤツなりに気を遣ってくれたんだろうとは思う。それは、わかっちゃいるのだが――。
(なんかズレテル。ずれてるのよ、ナル……)
 綾子あたりに言ったら、腹をかかえて大笑いしてくれそうだ。恋人をベッドに置き去りにして、洗濯機をまわしておくとは。たまげた男だ。
「つかさ、あたし、着替え……持ってきてないのよ……ナル……」
 何せ、昨夜は麻衣にとっても予想外の夜だったもので。

 かくして、件の男はリビングにいた。
 ―――がっこんがっこん。
 朝から家中に響く騒音に、しかしナルは無言だった。煩い騒がしいに過剰なまでに反応する男が、珍しい。
 麻衣の視線の先で、ナルの長い手足が柔らかな曲線を描きながら、的確に、そして滑らかに型を取ってゆく。ゆったりとした動きのなかに、ぴんと張り詰めた緊張感が指先まで支配している。太極拳だ。これが噂のナルの日課か、と麻衣ははじめて目の当たりにしたその光景をじっと見詰める。
 しかし、こういう朝に太極拳とはどうだ。偏見かもしれないとは思いつつも、麻衣のなかで太極拳は、団地前の広場だとか、公園だとかで、おばちゃんおじちゃんが大勢集まってやってるイメージに直結する。しかも太極拳が流行っていたのは、割りと一昔前の話ではなかったか。
 ナルは、リビングを覗いている麻衣に気づいているくせに、ちっとも麻衣に声をかけてこない。おはようの一言もないらしい。
 ―――がっこんがっこん。
 洗濯機はまだ止まらない。
 さあ、あの朴念仁をいったいどうしてくれよう。タオルケットにくるまりながら、麻衣は唸った。

070131