富士山は年々低くなるけれど、チョモランマは年々高くなっているんだそうだ。地殻がどうちゃらこうちゃら、難しい話はわからないけど、要はあれだ。きっとチョモランマの上のほうは足場が脆くなってるんだろう。一度登ったら、さぞかし下るのは大変だと思ったりするんだけど、どうなのかしら。


 自分たちの関係を世間一般の恋人同士という枠に嵌め込むことに少なからず抵抗を感じていたのだけれど、麻衣が自分たちの関係についてナルに深く追及したことは、ほとんどない。過去に、それをネタに喧嘩らしきものをしたことがないわけではないが、それももう随分前のことだ。尤も、自分たちの関係云々の前に、往々にして常識外れな彼を枠に押し込めるには、麻衣はさらなる違和感を覚えていたのだけれど。
 麻衣はナルの愛情に疑いを持ってはいない。ナルの愛情表現は淡白で、そしてときに幼稚であるけれど、一番重要な根っこの部分はしっかり押さえている(と麻衣は思っている)。
 問題は、麻衣がその定形外なナルの愛情表現に耐えられるかどうかだった。麻衣が彼との間に世間一般の恋人らしい甘いやり取りを期待するようなら、彼らの関係は成立し得なかっただろう。そして何も、麻衣だけが耐えていたわけではない。ナルもナルなりに、慣れない自分の気持ちに何とか折り合いをつけ、麻衣ときちんと向き合おうとは努力はしていたのだ。それが努力止まりになっていたのではなかろうかという疑いには、この際目を瞑るとして、麻衣はそんなナルのことも十分承知していたので、敢えて何も言ってこなかった。
 もう悟りの境地ですね。―――そう言ったのは、安原だったか。
 いっそ高野山に登るか。あれ、でもあそこに尼さんっているんだっけ? 今度、ぼーさんに詳しいことを聞いてみよう。
「………あぁ……」
 思考の逃避は、永遠には続かない。
「どうしたもんかね……」
 安原の言っていたように自分は悟っているのだ、と麻衣は思ってきた。そこらの大人よりよっぽど大人らしい反面、子どものように酷く不安定な一面も合わせ持つナルを、受け止めているんだと、自負していた。
「まったく子どもはどっちなんだか……」
 自分じゃないか。麻衣はため息をこぼす。
 ひとり善がりな自負と悟りで、長いこと覆い隠してきたものは、大きい。曖昧で、ぬるま湯のような関係に逃げていたのは、ナルではなく、むしろ麻衣自身であったと気づく。
 あんなナルを、麻衣は知らない。いったいナルに何があったんだと叫ばずにはいられない自分と、一方でそりゃそういうものだろうと冷静に分析している自分がいる。
 ナルだって男だ。そして麻衣は女だ。要は、そういうことだ。いつまでも、パジャマのままで一緒に寝てられないのだ。
 しっかし解せないのは、ナルの手つきが意外と慣れていたように思えて仕方がないというか。それがけっこう腹立たしい。これは最悪、問い詰めてやらなきゃいけないかもしれない。

 意を決してそろそろと扉を開ければ、美貌の能面がそこに立っていた。その相変わらずの無表情からは何も読み取れない。
「ず、ずっとそこにいたの?」
「麻衣が出てこないから」
「……ごめんなさい」
「何故謝る?」
「叩いちゃったし……」
「その原因を作ったのは僕のほうだろう。お前は自分の身を守っただけだ」
「守るって……」 麻衣は目を見開き、はっと息を飲んだ。 「ち、違う!!」
「何が?」
「違うったら違うんだってば! いいいいい嫌だったわけじゃないんだって!」
 嘘をつくな、とばかりにナルの目がすっと細くなった。そりゃそうだ。あれだけ思いっきり頬を叩き(実際、ナルの右頬が腫れているようにも見えなくない)、挙句に「やめて!」と思いっきり叫び、トイレなんぞに逃げ込んでおいて、今更「嫌じゃなかった」なんて言い繕っても空々しい。
 それでも麻衣はナルにしつこく食い下がった。無表情の下でナルが少なからず傷ついていることをよく知ってるからだ。
「本当に違うんだってば、ただちょっと驚いちゃっただけで! ううううう嘘じゃないよ! ちょっとくすぐったくって変な感じでびっくりしてくすぐったくて……ととととにかく妙な感じで、びっくりして……あがががが」
 嗚呼、自分は何を言っているんだろう。言わなくてもいいことを言いまくって、墓穴を掘っている自分を自覚しつつも、止められない。見下ろす漆黒の双眸は麻衣が叫べど喚けど動かない。
「きっ嫌わないで!!」
 げほっと咳き込んだのは、ナルのほうだ。
「き……嫌わないで……」
 かすかな嗚咽と盛大なため息が暗い廊下に消えていった。
「お前は何を言い出すんだ。馬鹿か? ああ、そうか。お前は馬鹿だったな。しかも筋金入りの馬鹿だ」
「う、うるさい!」
「それに馬鹿の泣きっ面ほど見苦しいものもない」
「ひ、ひど……!!」
 チョモランマの上に君臨する男の態度はいつだって絶対零度だ。
「麻衣。お前が何か激しく誤解をしているようだから言っておくが……」
 そこで一旦言葉をとめて、ナルは一息つく。何かを言いよどんでいるらしい。珍しいこともあるもんだ、と麻衣は思った。
「僕は別に慣れているわけでもない」
「は?」
「慣れてるわけでは決してないんだが……」
 嗚呼、天上天下唯我独尊男がチョモランマを下山してくる。麻衣のために。一歩一歩、不安定な足元に細心の注意を払いながら。
「怖がらせてすまなかった」
 尚もチョモランマを下る男。彼だけに移動させるのも申し訳ない。さて、自分はどうやって世界一の山を登るべきか。麻衣は涙を拭いながら、考える。



慣れてるもなにもナルはDOUTEIだからさ
20060602脱稿/20060704加筆