父と子と聖霊の御名において
アーメン



 これじゃナルじゃなくてもため息のひとつやふたつ付きたくなるわな。
 事務所のビルを出た途端の、この喧騒。調査の事後処理がやっと終わって一息ついたところであったのに、この人ごみのなかを歩いて帰らねばならないのかと思うと、流石の麻衣も気が滅入る。
 どっと増した疲労感に、麻衣は肩を落とした。ちらりと隣に立つ美貌を見上げれば、案の定と言うべきか、彼は普段の3割り増しぐらいで不機嫌そうに眉を寄せていた。
「事務所の移転を考えるのもいいかもね」
「……」
 ナルの沈黙は肯定か、否か。麻衣には判断し難かった。

 特に会話らしい会話もなく(むしろ麻衣が一方的にとりとめもないことを喋り続けて、ナルがそれを相槌を打つわけでもなく黙ってい聞いている状態で)、人で溢れた道玄坂を並んで下ってゆく。
 坂を飾る色とりどりのイルミネーションは、デスクワークで酷使した目に痛く、綺麗だなんて思う余裕はなかった。至るところから聞こえてくるクリスマスソングは、もはや不協和音と化していて、聞き苦しい。擦違う人はだいたいにしてカップルらしき二人組みで、彼らは手を繋いだり、腕を組んだり、頬を寄せ、なかには道のど真ん中で熱いラブシーンを繰り広げているつわものまでいる始末だった。
「あークリスマスももう終わるねぇ」
 腕時計を見て、25日が後数時間もすれば終わることを、麻衣は知った。
 世はクリスマス。イエスキリストの誕生を祝うはずの今日。ここ、極東の島国、日本では、何を間違ったのか、クリスマスは恋人たちが甘い時間を過ごすものだという勘違いも甚だしい認識が蔓延(はびこ)っている。そう、誤認だ。麻衣とてそれくらいはわかっている。ナルのように「クリスマス?」と鼻で笑って一蹴するまでもいかなくとも、しかし、何が悲しくて鉄面皮の上司と仕事に励まなければならなかったのか。
「この馬鹿騒ぎが終わると思うと清々するな」
「クリスマスが終わったら、次は大晦日だよ」
 大騒ぎはそう簡単には終わりませんよぅ、と麻衣はにやにやと笑う。
「それからね、今年は皆で年越し蕎麦だからね」
「僕は……」
「ついでにあたしの合格祈願にも行くんだからね」
 麻衣はにっこりとナルに笑ってみせた。行かないとは言わせませんよ、と麻衣の顔に書いてあるのを見て、ナルは嘆息を下した。
「……神頼みする暇があったら、単語のひとつでも覚えたらどうだ」
「問答無用で受験生を調査にかり出すような誰かさんに言われたくはありません」
「それに見合う給料は払ってるはずだが」
「時間はお金じゃ買えないのよ」
 時は金なりなんていうけどさ、あれ絶対に嘘だよねぇ。お金より時間のほうが貴重だもの。でもお金ないと、受験も出来ないからねぇ。バランスが難しいよねぇ。――などと麻衣は尤もらしいことをぶつぶつと呟いた。


 やっとついたハチ公前広場は、道玄坂がいっそましに思えるくらいに酷い有様だった。どこからこんなに人が沸いてでてきたのだろう。人酔いしそうで気持ちが悪い、とナルは思う。
「夕飯は昨日作っておいたものが冷蔵庫に入ってるから」 麻衣が言った。
「ああ」
「ちゃんとチンして食べるんだよ」
「わかってる」
 どうだか、と麻衣は肩を竦める。本当はナルの家までついていって彼の食事を見届けるくらいしなければ安心できないのだけれど、今日はもう晩(おそ)い。ナルのマンションに寄って、その後自分の家に帰ったら、日付が変わってしまうだろう。
「お願いだからちゃんと食べてよね」
「はいはい。じゃ……」
 お小言は充分ですと言わんばかりに、背を向けてJRの改札に消えてゆこうとするナルを、麻衣は慌てて呼び止めた。
「何」
「待って、待って……」
 ごそごそと鞄の中を漁る麻衣を、眉を顰(ひそ)めながらナルは見下ろす。正直この人ごみのなかにい続けるのは、もう限界なのだ。
「はい」
 と、麻衣に手渡された紙袋。中を覗けば、黒い毛糸で編まれた何かが入っていた。
「メリークリスマス」
 ナルは紙袋からそれを取り出して広げてみる。 「………マフラー?」
「クリスマスプレゼントっていうか、日頃の感謝を込めてって感じで。綾子と一緒に皆の分作ったんだよ」
 へへへへと麻衣は得意気に笑った。
「……お前は受験生じゃなかったのか」 ナルの声には多分に呆れの響きが含まれていて。
「うるさいなぁー。いいんだよ、マフラーはけっこう簡単だかんね。勉強の合間にちょこちょこと」
「長いな……」 ぱっと見ただけでも、それがそうとうな長さがあるものだと分かる。これ一本で、ふつうのマフラーの二本分の長さがあるのではなかろうかナルは思った。
 麻衣は笑いながら、ナルの手からそのマフラーを抜き取ると、徐にナルの首にそれをかけた。
「ぐるぐる三重巻きでも四重巻きにでもしてください。暖かさは保障いたします」
「……どうも」
 マフラーに顎を埋めたナルを、麻衣は満足げに見上げ、そして目を細めた。どこか切なげな色を持つその瞳。それを見止めたナルは、知らず知らずのうちに息を呑んだ。
「んじゃあね、ナル。お疲れ様ぁ」
 喪(うしな)った片割れを髣髴とさせる笑顔を残して、地下鉄の出入り口に消えてゆくその小さな背中。それがいつになく儚げに見えてしまったのは、ナルのただの錯覚だったのか。
 マフラーに手をかけて、ナルは嘆息を溢す。嘆息は喧騒に掻き消えた。網膜に張り付いたままの先ほどの麻衣の切なげな瞳を振り切るかのように、ナルは改札口へと踵を返す。麻衣の手編みのマフラーは、彼女の言うとおりとても暖かかったけれど、肩と首に少しばかり重かった。


 地下鉄のホームで電車を待ちながら、麻衣はそっと息をついた。ホームは地上同様、人であふれかえっていたけれど、今はその喧騒がありがたかった。騒音は沈んでゆく思考に、ブレーキをかけてくれる。
 あの朴念仁なら、あの黒いマフラーに密やかに込めた想いに気づきはしないだろう。それでも、麻衣のなかに巣食うナルへの後ろめたさは拭えない。あれは麻衣からナルへのプレゼントであると同時に、ナルの片割れへのプレゼントでもあった。二本分の長さのマフラーは、そういう意味だ。
 ナルにあれを渡したのは、麻衣のただの自己満足だ。ナルとジーンが同じ人間ではありえないことを、麻衣とてよく承知している。同じ姿で、同じ血を分けた同じ遺伝子を持つ双子のくせに、似ても似つかない彼らを、麻衣はもう見間違えない。そうと分かりながら、ナルにジーンへのプレゼントを託すことによって、自分の気持ちを満たそうとしたのだ。それが、ナルとジーンへの手酷い裏切りも同然の行為だということを知りながら。
 あの朴念仁は、きっと気づかないだろう。気づいて欲しくて渡したわけではない。むしろ気づかないでいてくれて構わない。
 あの長いマフラーはジーンには届かない。それでも、いい。それで、いい。
 恋はひとりでも出来る。自己満足だと言われようが、傍から見てどんなに滑稽だろうが、麻衣は一向に構わない。自分は、この想いを風化させたくはないのだ。

 父と子と……。
「……ジョンにお祈りの仕方を習っとけばよかった」
 折角のクリスマスなんだから、神様だってお願いごとのひとつやふたつ叶えてくれたかもしれないのに。
 麻衣の嘆きは、ホームに入ってきた電車の轟音で掻き消えた。




嗚呼、天におわします父なる神よ
どうか罪深き私を御赦し下さい

アーメン




20060703脱稿/20060722掲載

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