バイトを早めに切り上げて、図書館で安原に受験勉強を二時間ほど見てもらうというのが、ここひと月ほどの麻衣の生活リズムだ。それはよっぽどのことが無い限り、狂うことはない。尤も、万年閑古鳥が鳴いている渋谷サイキックリサーチに、よっぽどの依頼なんぞないに等しい。
気づけば、あれよあれよと言う間にクリスマスが終わり、もうセンター試験まで三週間ほどしか時間は残されていない。追い込みの時期なのだ。正直に言えばバイトさえも休んで、勉強をしたい。だけどバイトの収入が生活の基盤になっている麻衣にとって、バイトは何があったって欠かすことができないものだった。
その点、給料カット無しで、バイトを早めに切り上げることを許してくれたナルには(というか無理やり承諾させた)、麻衣はとても感謝している。
「僕はてっきり谷山さんは森さんからの話を受けるのだとばっかり思ってましたから、そりゃ吃驚(びっくり)しましたよ」
と、ふと思い立ったように、安原は言った。
「家計を考えると喉から手が出てくるほどのお誘いだったんですけどねぇ」
甘ったるい缶コーヒーが麻衣の口のなかに膜を作るように広がってゆく。疲れた身体には、むしろそれがとても心地よい。勉強を終えてから、図書館のロビーで安い缶コーヒーを安原と二人で飲むのは、もう恒例行事のようなものだ。
「所長は何て?」
「なーんにも」
「何も?」
「一応相談はしたんですよ」
まどかを通してSPRのイギリス本部から、将来的に正式に谷山麻衣を調査員として雇いたいという話が降ってきたのは、つい先月のことだ。
それに伴う、孤児である麻衣の生活の補助、大学進学における奨学金授与、その他諸々、SPR本部が麻衣に提示してきた条件は、麻衣が今まで培ってきた常識から激しく逸脱していて、破格と言っても過言ではなかった。
現在、麻衣が渋谷サイキックリサーチのバイト調査員として既に決して安くはないバイト代を受け取っているとは言え、家計が楽ではないことは、どうすることも出来ない事実だ。金銭面を物差しにして考えれば、麻衣のとるべき道は、もはや自明。だけど、それは麻衣の将来を否応なしに決定するようなものだ。ただ就職するならまだしも、奨学金だの何だのと、借りを作っておいてしまては、後々逃げ道もありはしない。SPRが肌に合わなかったので転職しますなんてほいほい言えるわけもない。決断する前から逃げを考えるとは、無鉄砲と言われがちな麻衣らしからぬことだけれど、事が事なだけに、流石の麻衣も慎重にならざるをえなかったのだ。
そして、考えに考えた末、麻衣はまどか達の誘いを断った。
「でも、あたしのことなんだからあたしで決めろって。ナルには関係ないって。そう言われちゃいました」
「……まあ、谷山さんの人生ですからね。あなたが決めるべきことではありますが」
「そりゃそうなんですけど。あの言い方想像できます? 冷たいの何のって」
曰く、僕にお前の人生を左右する権利も義務もないし、ましてや責任ももてない。冷たいも、冷たい。麻衣とて優しい言葉を期待していたわけではないが、如何せんあの言い方はどうだ。あまりの突き放されように、泣きそうにもなった(意地でも泣かなかったけれど)。
「気を遣ってくれたのでは?」
「どこをどうしたら気を遣ってるっていう結論に至るんだかなぁ……」
「気難しいことで有名なオリヴァー=ディヴィス博士の御執心というジャパニーズガールは、本国で専らの噂の的らしいですよ。当然、その噂を知らない所長ではないですし、噂を作ってしまったという自覚もあったでしょう。あの人なりに思うところもあったのでは?」
「誰情報ですか、それ」
「当然、森さんです」
まどかさんかぁ。麻衣は苦笑いする。
いったいどういうラインが、まどかと安原の間に成立しているのか、とても気になるところだけれど、突っ込んで尋ねるのは怖い。常に笑顔を絶やさないふたりだけど、その笑顔こそが天上天下唯我独尊のナルをも時に凌駕するのだから。
「ディヴィス博士のハートを射止めたのはどんな女の子だと、そりゃあもう、大騒ぎらしく」
「……ていうか、御執心って、そういう意味じゃないと思うんだけど……」
「まあ噂というものは、得てして大きくなるものです。どちらにせよ、身内さえも切り刻みたいと思うマッドサイエンティストたる所長が、喉から手が出るほど欲しい貴重な披見者である貴女を引き止めなかったわけですから」
「気を遣ってくれたって?」
そうです。安原は頷く。 「まあ僕は、所長が何をどうしようが、谷山さんは森さんの話を受けると思っていたわけで……」
「あはは。何でですか」
「だって、谷山さん、この先、事務所を辞める気なんてさらさらないでしょう?」
にっこりと笑う安原に、麻衣は思わず言葉を詰まらせた。麻衣は誤魔化すように喉にコーヒーを流し込んで、一息つく。
「……辞める気はないですけど……」
「でしょう?」
だったら、何故。安原は問う。
時間を切り詰めて、お金を切り詰めて、精神も体力も切り詰めて。そうまでして大学に進学をしようとする理由が何処にある。そこまでして進学を望むのなら、本部の申し出を受けてしまえば、麻衣にとってはこの上なく都合がいいのではないか。
安原の言いたいことは、麻衣にもわかる。だけど、安原は決定的なことをわかっていない。だから麻衣は安原の筋の通った言い分を聞き入れられない。
麻衣のなかでは、このまま渋谷の事務所にい続けることと、SPR本部と一生付き合ってゆくことは決してイコールで結ばれはしないのだ。本部には、皆がいない。安原が、綾子が、真砂子が、滝川が、ジョンが、リンが。そして、ナルが、いない。彼らがいなければ、麻衣にとっては何の意味がない。彼らのいないSPRに魅力などこれっぽっちも感じはしないのだ。
例えば、将来的に渋谷の事務所が閉まるときが来るかもしれない。いつぞやのように、ナルが帰国してしまうことだって、ありえなくはないのだ。むしろそういう未来のほうが、想像に難くない。本国は将来有望なディヴィス博士の帰還を根強く待ち望んでいるという(何故ナルが極東の島国の支部に拘るのか、実のところ麻衣も知らない)。そう遠くない未来、彼はイギリスに帰ってゆくだろう。それは現実を見据えた上での、確信だ。
果たして、そんな未来で麻衣はいったいどんな選択をするのか。皆がばらばらになるそのとき、麻衣は耐えられるだろうか。それが、怖い。
ひとりは、嫌だ。
「何故、大学にそんなに行きたがる」
受験勉強のために、バイトを早上がりにさせて欲しいと言った麻衣に、ナルは問うた。彼には純粋に疑問だったようだ。或いは、暇な事務所とは言え、貴重な調査員にして雑用係である麻衣を引き止めるための文句だったのかもしれない。
勉強が好きでもないくせに、何故大学に拘るのか、と。生活が大変なら働けばいいだけだ、とナルは言った。
麻衣は答えなかった。まさか、"保険"をかけているのだ、とも言えるわけがなかった。
いつか来るであろう、別離。皆には帰るべき場所がある。普通なら誰もが持っていて当たり前のものを、麻衣は持っていない。麻衣はひとりだ。自分をかわいそうだとか悲劇のヒロインよろしく思ったことはないけれど、どうしたってひとりだという事実は、麻衣の肩に重く圧し掛かる。それは結婚でもしなければ、根本的には解決できない問題だ。いや、結婚したって解決できるものではないかもしれない。
帰る場所がなければ、前に進むしかない。想像したくない、未来。だけど何れ来る未来のための、進むべき場所、或いは逃げ込める場所を用意しおく必要がある。大学は、そのための“保険”だ。或いは、麻衣の居場所の確保。
「……うーん……そうですねぇ……。なんていうか……、いろんな世界を知っておきたいんです。後学のためにってヤツです」
曖昧に笑いながら、麻衣は言った。
「後学ねぇ。なるほど」
いろんな世界。後学。―――将来を語る上での常套句は、安原の疑問を誤魔化しこそすれ、なんら麻衣の核心には触れていない。でも、安原はそれ以上聞いてこなかった。聡い彼なら、麻衣の抱える不安を少しは察知してくれたかもしれない。だからといって、安原に何が出来るわけでもないことを、安原は知っている。
麻衣の人生だ。麻衣が決める。
力になってやりたいと心の底から思うけれど、麻衣がそのうちに抱えるものを暴かれたくないというのなら、黙っているのがいいというものだろう。もしかしたら麻衣は誰かに核心まで踏み込んでもらいたがっているかもしれない。だけど、その“誰か”が少なくとも自分ではないことを、安原はよくわかっていた。
大量に食料品を詰め込んだビニール袋を両腕に一つずつ抱えて、麻衣はスーパーを出た。外は真っ暗だった。腕時計を見れば、もう七時半だった。
「寒いなぁ……」
麻衣の嘆息は冷え切った空気を白く濁して、寒空に消えた。
バイトを早上がりして、図書館で勉強して、スーパーに行って、そしてナルの家にご飯と作りに行く。バイトを早上がりする代わりに、所長に何か食べさせてくれと言ったのは、リンだった。食費は麻衣の分も含めて、すべて事務所持ちだ。ご飯を作って、一緒に食べて、少しお茶して、ときたまナルにも勉強を見てもらって、そして帰って、また勉強する。これが、ここひと月ほどの麻衣の生活だ。楽では、ない。だけど、きつくもない。
あとどれくらい、こんな日々を過ごせるだろうか……。
唐突に、会いたいなぁと思った。あのやさしい笑顔に会いたい。どんな不安だって、恐怖だって吹き飛ばしてくれた、あの笑顔に。会いたい会いたい。いつだって会いたくてたまらない。
ぴゅっと北風が吹いた。
つんと鼻の奥が痛くなったことに気づかぬふりをして、麻衣は北風に押されるように歩き出す。鉄面皮の上司がいる、あのマンションに向かって。
20060711脱稿/20060723掲載/20060731改稿
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