キラキラ マイ・ガール!



 つくづく女の子の力ってものは、すごい。
 黒いシャツの襟元をぐいと掴む握力にも驚いたが、それにしても、よくもまあその細い脚でここまで辿り着けたものだ。何せここは電車や飛行機でやって来れるような場所ではないので。そもそも“ここ”に普通の人間は来ることは本来叶わぬ場所だ。来ちゃいけない。ジーンがいるのは、そういう場所だった。
 ただただ静かに、そこに広がる闇のなか、ジーンは半ば呆然としながら、そしてもう半分は感心しながら、自分を思い切り睨みつけてくる少女を見つめた。
「いやあ……」
 こういう場合、少女になんと声をかけてやるべきなのかちっともわからなくて、ジーンはらしくもなくうろたえた。
 ここ最近、双子の弟からの音沙汰がとんとないと思っていた矢先、まさかこの少女がジーンの前に現われるとは予想だにしなかった。予想外もいいところだった。
「……えっと、久しぶりだね」
 一応は久方ぶりの再会であることだし、とりあえずは喜びでも分かち合いたいとジーンは思い、抱擁のために腕まで広げたのだが、、
「ナルと喧嘩したでしょ!」
 少女の開口一番が、それだった。
 ジーンはがくりと首を落とした。再会を喜び合うどころか、挨拶すら省かれてしまったのであった。
「うん……、あのね、話が見えないんだけど?」
 苦笑いをこぼしながら、ジーンは少女の肩にかけそびれた腕を掲げて、降参のポーズをとる。
「ちゃんと説明してくれる? 麻衣」
 途端に、少女が――麻衣がぎゅっと眉根を寄せて、今にも泣きそうな顔をしたものだから、ジーンは尚一層困った。
 

「ナルがおかしいのよ」
「うん」
「ナルが変なの」
「うん」
 結局、ちゃんとした説明はなされないままだった。麻衣の話はひどく抽象的だった。きっと麻衣自身が何をどう話したらよいのかわかっていないのだろうとジーンは思った。
 最初こそ必死に理性的に、論理的に言葉を並べようと務めていた麻衣だったけれど、彼女のなかで何かが振り切れてしまったのか、途中から麻衣は幼いこどもが癇癪を起こしたかのようにジーンに掴みかかってきた。
 ジーンのシャツを掴み、がくがくと揺さぶり、喚く。ナルはとうとう本格的に頭がいくところまでいっちまったんじゃないか、とか。さもなくば、ナルは変な霊にとり憑かれて思考の自由を奪われてるんじゃないか、とか。麻衣はそのようなことを一思いに捲くし立てて、頭を抱えていた。
 曰く、もうわけわかんないのよ、と。
「あのナルがぼうっとしてて。この前なんかコーヒーをこぼして、火傷して」
「うん」
「と思ったら、階段でずっこけて、尻餅ついてんの」
「う、うん」
「嫌味を言ってみても、あの百倍返しの鬼のような言葉攻めもなくって」
 つらつらとナルの奇行を並べ立ててゆく麻衣をあやす様に抱き寄せて、さらに額にキスを落としたら、彼女は奇声をあげてジーンの腕のなかから飛びのいた。そうだった。東洋の女の子はこの手のスキンシップに過剰に反応するんだった。
 ジーンは咽喉の奥で笑って、もう一度麻衣を抱き寄せた。暴れる細い身体をそれでも構わずに抱きしめ続けたら、麻衣はやがて観念したのかジーンの抱擁を受け入れた。
 興奮し、荒く息をつく背中をぽんぽんと擦ってやる。相も変わらず細い背中だった。そして、やわらかい。女の子だった。女の子の身体だった。
「そうだね、変だね、ナルのヤツ」
 穏やかな声を意識しながら、ジーンは言った。その間も背中を擦ることをやめない。
 やがて、幾分か落ち着きを取り戻したソプラノが、ジーンの胸元から聞こえてきた。
「最初は暑さにでもやられたのかなって思ってたんだけど、」
「うん」
「でもひと月もこんな感じなのよ。あのマッドサイエンティストがあたしの訓練もしなくなったの。ひと月もよ、ひと月も! 何かあったのよ、きっと。ぜったいに何かあったに決まってるんだから!!」
 そしてやっぱり麻衣は興奮する。
 ジーンは苦笑した。我が弟のことを本気の本気で心配してくれているらしい麻衣に、ジーンは心の底から感謝した。それでもこみ上げてくる、苦笑いを堪えきれないのはどうしてだろう。
「だから、僕とナルが喧嘩したんだって、君はそういう結論に至ったわけだ」
 麻衣はそっとジーンの胸を押しやって、ジーンの顔をのぞきこんだ。違うのか、と目だけで力強く訴えてくる。
「喧嘩したんなら、仲直りしてよ。たぶん、っていうか200%ナルが悪いんだろうけど、許して上げてよ、ジーン」
 まったくもってひどい言われようの弟だ。そして弟とは対照的にに自分に寄せられる強い信頼。ジーンはくすぐったそうに目を細めた。
「うーん、残念ながら喧嘩もなにも、僕、ナルとはここ最近ちっとも会ってないんだよ」
「嘘!」
 間髪いれずに飛んできた悲鳴にも似た声に、ジーンは首を横に振ってみせた。
「嘘じゃないよ、麻衣。本当なんだ。ナルは僕に会ってくれない」
 本当の本当だった。
 ジーンはナルに会っちゃいない。正確にはナルが会ってくれない。ジーンが呼びかけても、ナルからのレスポンスがない。錆付いたホット・ラインとはいえ、使えないわけじゃないことを、ジーンは身をもって知っている。ここ数年、無理矢理チャンネルを合わせて、何度も何度も兄弟の逢瀬を重ねてきたのだから。
「どうして? お兄ちゃんと弟なのに」
 では、何故、ナルはジーンに応えてくれないのか。
「嫌われちゃったかなー?」
「そんなわけない!」
「どうだろう?」
 その意味を考える。ナルの行動の意味を考える。
 ――考えるまでもなかった。
 嗚呼、とジーンは胸のうちで長く長く息をついた。全身の力が抜けていくかのような、安心感。肩が軽くなったような。それがうれしくもあり、同時に寂しくもあった。
 急に途絶えた弟との逢瀬の意味を覚(さと)ったジーンだった。すべては推測でしかないけれど、きっとそういうことだろう。
「ありがとうね、麻衣」
 は? と目を瞠る麻衣に、ジーンは頭を下げる。
「僕の弟を心配してくれてありがとう。ナルのためにこんなところまでやってきて」
 見渡す限りの闇を、麻衣は今更のように意識したらしく、その瞳を不安げに揺らめかせた。
 不安を振り払うようにぎゅっとジーンのシャツを握ってきた麻衣の掌のなんと小さなことか。それでもこの小さな掌の持ち主が、ジーンに会いにきてくれたというのだから。他ならぬナルのために。――それが何よりもうれしい。
「ナルが訓練を中止していたっていうのなら、尚更、ここまで来るのは大変だったろうね。どんなに才能のある人だって、こっち側にくるのは大変だし、危険なことだから」
 頑張ったんだね、麻衣。
 そう言うと、麻衣の眦にみるみるうちに涙が溜まってきた。それでも麻衣は必死に目を見開いて、涙が零れ落ちるのを堪えていた。
「ああ、そうだ。麻衣、久しぶり」
 そしてとうとう我慢がきかなくなって泣き出した麻衣の眦に唇を寄せて、ジーンは破顔させた。
 今まで会いにいかなくってごめんね。弟が心配をかけてごめんね。泣かせてばかりでごめんね。
 いっぱいのごめんね、を繰りかえしながら、ジーンは麻衣が泣き止むまでその身体を抱きしめ続けた。つくづく女の子ってかわいい生き物だなあ、と思いながら。

悪霊|081129|19.19.08