ひょっこりSPRの事務所に顔を出した滝川を迎えたのは、麻衣とリンだった。安原は所要で出かけているらしく、所長のナルは例によって例の如く所長室で仕事の虫と化しているらしい。所長に負けじ劣らじと無愛想なリンもさくっと挨拶を終えると直ぐに己の仕事に没頭しだしてしまったので、消去法で、結局滝川の相手をしてくれそうな人間は麻衣だけになってしまった。尤も、滝川がこの事務所に顔を出す目的は、いつものことながら麻衣なので(自称麻衣の父を語るくらいであるし)、問題は全くもってなかった。むしろ我が娘のように可愛い麻衣とゆっくり話が出来るのだから、滝川にとっちゃこのほうが都合いい。
来客用のソファに座り、作り立ての麻衣特製のアイスコーヒーを間に挟めば、閑散としたオフィスに、和やかな擬似親子の構図が瞬く間に出来上がる。オフィスには場違いの雰囲気は、しかし、それを良しとしない所長様が部屋にこもっているため、誰に咎められることもない。
「そうだ、ぼーさん」
「ん?」
ちょいちょいと動く麻衣の人差し指に誘われるまま、滝川は麻衣に顔を寄せた。
「実はさ、ナルが」
「おう」
「なんかさ、最近ナルが変なんだよね」 いつになく神妙な面持ちで、麻衣は言った。
「あいつはもともと変だ」 対する滝川の瞳も真剣そのものだ。
違う! 麻衣はオフィスのデスクに拳を一発叩き込んで、きっと滝川を睨みあげた。
「あー悪かった悪かった」
ふざけて悪かったと滝川は苦笑い交じりに謝罪した。ついでに何処かの所長様並の深い皺を眉間に寄せている麻衣の頭を撫でてやれば、彼女は今度はぷぅっと頬を膨らませてみせた。その芝居がかった麻衣の表情の変化で、麻衣の機嫌が直ったことを、滝川は知る。
「で、ぼっちゃんがどうしたって?」
仕切りなおしとばかりに足を組みなおして、滝川は麻衣に尋ねた。
「変なの」
麻衣の答えはシンプルそのものだったが、如何せんシンプル過ぎる。
「どこがどう変なんだ?」
「わかんないけど。ほら、この間道端でナルが倒れたじゃない。あの日以来、なぁんかねえ……変なのよ。なんとなくだけど。ぼーさん、わからない?」
そりゃ、お前さん。滝川は額に指先を宛がって唸った。 「お前さんがわからなきゃ、誰がわかるっていうんだよ」
「何であたしがわからなきゃ、皆がわかんないのさ」
何でって、何でだろう?
滝川はうーんと唸って考えてみるが、もっともらしい答えは捻り出せなかった。
それにしても、凸凹なコンビだよなあ、と滝川は歳若いふたりを見て思う。麻衣と、ナル。天真爛漫を絵に描いたような女の子と、絶世の美貌を持ちながらも、どうにもこうにも辛気臭い少年。いや、もう青年か。後ふた月もすれば、二十歳になるという彼は、もはや少年と呼ぶには相応しくない年頃になりつつある。麻衣は麻衣で来年には二十歳になるというのだが……。
「お前さんは、変わんねぇなぁ」
「何のこっちゃ!」
とりあえず褒められたわけではないことは、滝川のその口調から分かったので、麻衣は滝川の頭にチョップを軽く落とてやった。
「で、何で皆はわかんないのさ。なんか変なのよ、ナル。おかしいの。元気ないのよ。なんでわかんないかなあ」
頭の頂点を手で摩り、滝川は首を傾げる。
「何でだろうなぁ」
「役にたたないなぁ、ぼーさん」
「おっ前なぁ!」
―――ガチャリ。
何ともタイミングよく開いた扉は、所長室のそれだった。ぬっと現れた黒い影に、麻衣はソファに座ったまま条件反射の如く背筋を伸ばす。漆黒の双眸が麻衣と滝川を捉えて、不機嫌さも顕にすっと細くなった。
「お暇そうですね、谷山さん」
「あは、あははははは」
笑って誤魔化せとばかりに麻衣は笑い声をたてるが、乾いたその声はナルの美貌の前で儚くも散った。
「おーっす、ナル坊」
ナルの不機嫌な表情も何のその。滝川は臆した様子もなくあっけらかんと手を振ってみせる。
ナルはそれを容赦なく鋭い視線で黙殺して、今一度、麻衣を見やって言った。 「麻衣、お茶」
滝川は微かに首を傾げた。
(不機嫌っていうか、刺々しい? いや、攻撃的?)
麻衣はささっと立ち上がって、敬礼をせんばかりの勢いで叫んだ。
「はいぃぃ! ただいま!」
仕事をサボっていた現場を押さえられた調査員の立場は、地中のバクテリアよりも低い。食物連鎖の頂点に君臨する男に言われるがまま、麻衣は給湯室に駆け込んでゆく。給湯室からかちゃかちゃと紅茶の用意をする音が鳴り始めると、ナルは何も言わず所長室に戻っていった。
―――バタン。
オフィスは静寂に包まれる。滝川はその息苦しさを跳ね飛ばすかのように、カタカタとキーボードを鳴らしているリンを呼んだ。
「何でしょう」
律儀にも手元のパソコンから視線を滝川に移して、リンは答えた。
「そんなところで聞き耳立ててねぇで、こっち来いや」 滝川はにっと笑う。
リンは微かに眉を顰(しか)めたが、そこを動く気配はない。
「大人の内緒話だ」
こそりと給湯室に届かない程度の声で滝川が言えば、リンはため息をひとつ溢して、不承不承と滝川の隣にやってきた。
「ナル坊が変なんだと」
「そのようですね」 リンは淡々と答える。
「お前さんにはわかるか」
「まあ。普通ではないですね」
ナルの監視役にして保護者的な存在でもあるリンにわからないはずもなかったか。滝川は頷いた。
「どんな感じで」
「谷山さんの前だと特に、としか」
「充分だ」 滝川は不敵に笑った。
「滝川さん」
「ん?」
「出来れば、あなたには彼らのことをそっとして置いて頂きたい」
おやおや、と滝川は眉をひょいと動かしてみせる。 「もちろん俺だってなぁ、いくら可愛い愛娘だっつったって、その恋愛沙汰にまで首を突っ込む気はねぇよ」
「恋愛沙汰と決まったわけではありません」
「馬鹿者。これが恋愛絡みでなくて、何だっていうんだ」
「……」
「まあね、兎に角俺は黙ってるよ。相手があの可愛げのない男だとは言え、ね。で、俺はお前さんがわざわざ釘を刺してくる理由が知りたいなぁ」
俺たちが何かにつけて馬鹿騒ぎしようが常に黙って見てるようなお前さんが、こうやってわざわざ先手を打って牽制してくるとは珍しい。滝川はリンを見据えて言った。
「あなたはジーンを知らない」
「ここで噂の兄上様か」
ナルの双子の兄だったというジーン。彼の人となりその他を直接知るのは、彼の弟であるナルと、彼ら双子の幼少時代を知っているリンと、麻衣だけ。麻衣はどうやらジーンに想いを寄せていたらしい。しかもこのジーンときたら、既にこの世の人ではなく、かと言って、未だあの世の人にもなり切れていないという中途半端な存在だとういう。――滝川が知っているのは、所詮この程度の話だ。麻衣も、ましてやナルもジーンのことを話したがらない。
「先日、ナルが谷山さんの“訓練”を中止すると言い出しました」
「その心は?」
「谷山さんがトランスするということは即ち、彼女がジーンの領域に入ってゆくことを意味しますので」
「つまり嫉妬かい」
「ナル自身にそういう意識があるかどうかは大変疑わしいですが」
「……なるほど」 一拍置いて、滝川は頷いた。
頭のなかで人間関係を整理してみれば、ものの見事な三角形が出来上がる。単純なようでいて、実は厄介なことこの上ない、この三角形。どうしたもんかと滝川は唸り、そしてすぐに考えることを放棄した。いかなるときも、人の恋愛沙汰には下手に口を出さぬが良し。甘酸っぱい恋や愛は、お若いふたりでどうぞ。おとなはそれを見守ってやるのが仕事だ。
「大変だな」
誰が、とも、何が、とも滝川は言わなかったけれど、リンは神妙な面持ちで俯いた。
20060703脱稿/20060715掲載/20060803加筆修正
19,19,07