甘い手



 プリントアウトしたデータの一部に視線を滑らせる。渋谷サイキックリサーチのアルバイトのひとりであり、所長の被験者でもある麻衣のデータだ。事細かに記録された、しかし無駄のないデータは、まるで芸術のように美しい。もちろんこのデータを作成したのは、所長オリヴァー=ディヴィス、その人だ。
 八つ当たり気味に放り投げだされた万年筆が、かつんと悲鳴をあげてデスクの上に転がった。万年筆と一緒に、プリントも放って、オリヴァーことナルは背凭れに身体を預け、そうして見上げた灰色の天井の一部に小さな汚れを見つける。それはナルをひじょうに不愉快な気分にさせた。
 集中ができていない。時計を見やれば、眉間の皺は一層深いものとなる。リンに無理やりとらされた休憩をきっかり5分で切り上げて、この所長室に戻ってきてから30分と経っていなかった。
 軽いストレッチを試してみたりして、それでも頭は一向にクリアにならない。どうしたことか。とうとう風邪でもひいたのかと考えた途端に、ほーれみたことか、と日ごろのナルの不摂生ぶりを指摘する麻衣の顔が浮かんできた。脳裏に浮かんだ麻衣は鬼の形相で、しかし、気遣わしげな目をしていた。
 ナルは微かに首を振った。いや、これは風邪ではない。寒気はないし、咳、咽の痛み、鼻水など、典型的な風邪の症状はどこにも見受けられない。アルバイトに説教される理由はない。
 頬杖をついて、何気なしに窓を見やる。ぎらぎらとした夏の太陽光が差し込んでいた。外は今日も真夏日だとか。尤も、この所長室は長袖のシャツでいられるだけの温度設定がなされているので、ナルは今、汗とは無縁の状況下にいた。
 完全防音のこの所長室から応接室に続く扉の向こう側からは、煩わしい音も聞こえてこない。
 環境はいつになく最高の状態だ。
 最高な状態だというのに、ナルは目の前に積み上げられた、宝の山に集中できないでいた。デスクの上に所狭しと並べられた資料。パソコンのなかに入力された膨大なデータ。白い計算用紙と、青いインキの込められた愛用の万年筆。誰よりも優秀だと自負する己が頭脳。――ソフトもハードも、すべてが揃っているというのに、研究が思うように進まない。
 おかしい。
 なんとか自分を奮い立たせようと試みようにも、集中力が続かない。こんな経験は初めてで、戸惑うばかりだ。
 睡眠不足だろうか。眠れない夜が続いている。そして眠れないからと、ここ最近夜な夜な兄と話し込んでいるのが原因かもしれない。夜更かしに加え、兄との合わないチャンネルを強引に繋いでいるつけが、身体に溜まってきているのかもしれない。
(馬鹿な……)
 そんなくだらない話があるか。自分の集中力が、たかが寝不足や身体の疲労だけで左右されるとは、とても思えない。思いたくもない。
 視界の端に、先ほど放った万年筆を捕らえる。何気なく指先で弾いてみれば、それはころころとデスクのうえを転がってゆく。その様子を胡乱な目つきで追う。徐に万年筆に向かって左手を翳せば、万年筆は不自然にぴたりと止めた。ナルはさらに左手を翳し続ける。念じる。こちらに来い、と強く、念じる。眉を寄せて、きゅっと口元を引き締めたところで、万年筆はやっとかたかたと動きを見せた。しかし、結局それだけだった。
 ナルは左掌を目の前に翳す。その左掌を自らの意思で開いたり、閉じたりを数回繰り返したところで、自然と深い嘆息がこぼれ落ちた。


 
 明かりを限界まで落とした所長室で、麻衣はリクライニングチェアに背を預けて瞼を閉じている。そんな麻衣を、ナルはデスクのうえに浅く腰掛けながら、ひたと見つめていた。
 麻衣の呼吸がゆっくりゆっくりと深くなってゆく。ナルはその様子を見つめている。かつてのように、麻衣の眼前に掌を翳すこともしなければ、誰もが美声だというそのテノールで静かに麻衣のトランスを促すこともしない。ただ、じっと、麻衣がトランスしてゆく様を、観察者の眼で見守るだけだ。
 深く穏やかな呼吸が、静かな所長室に沈んでゆく。
 長くも短くもない睫毛が、その頬に影をつくる。胸が緩やかに、微かに、上下する。
「すごいねえ、麻衣は」
 額と額を離すと、ジーンはそう言って、破顔させた。双子のホットラインと己が能力を駆使して覗いた弟の記憶に、ジーンは興奮気味だった。
 ねえ、そう思わないかい、ナル。
 鏡の向こう側から、ジーンが笑う。
「どこが……」
 ナルは嘆息交じりに言った。
「あのね、君に、麻衣のすごさがわからないだなんて、言わせないよ」
 その道のエキスパートだからこそ、なおさら君には麻衣のすごさがわかるだろう。と、ジーンは言った。
 ナルは微かに眉間に皺を寄せた。ジーンの言うとおりだった。
 彼女の大学受験で一時的に休んでいた“臨床実験”を再開させてから、2ヶ月近くが経とうとしているが、麻衣の能力は確実に右肩上がりのグラフを描いている。ナルの誘導をなくして、彼女自らの意思だけでトランス状態に入ることができるようになったというのは、驚異的な進歩だった。
「麻衣は開花してるんだよね。彼女のなかで眠っていた力が、花開いていってるんだ」
「指導者の腕がよい結果だろう」
 不遜な弟は、己の有能さを自ら指摘する。なまじ、その指摘が彼の思い上がりでは決してないところが、かわいくない。ジーンは呆れたように肩を竦めて見せた。かわいくない。血をわけた弟ながら、ナルは本当にかわいくない。
「まあ、そこは否定しないけど。でもねえ……」
 かわいくない、なんて言ってみたところで、当のナルが気にするわけもないから、絶対に言わないけれど(むしろナルなら、光栄だと言い出しかねない)。
「“でも”?」
「これは、つまり、麻衣がいかに君のことを信用しているかってことだよね」
 じゃなきゃあんな風にはなれない、とジーンはきっぱりと言いはなった。
 かつて、母国イギリスで幾度となくこの手の実験の被験者を体験してきたジーンだからこそ、わかる。
 PKにしろ、ESPにしろ、何れも本人の精神状態に左右されやすいひじょうにデリケートな能力だ。ジーンの場合、双子の弟が傍にいるだけで、その能力を存分に発揮することができた。逆に、不得手な研究員が近くにいると、たったそれだけのことで本来持つ能力の半分も発揮できなくなったりもした。ナルからすれば 「訓練が足りないから」「精神力が弱すぎるから」と言い捨ててしまいたいところだけれど、そう言うナルとて、PKやESPが内包する脆さを理解していないわけではない。PK、ESPが当人の精神状態に左右されることは、データとしてはっきりと弾き出されている公然たる事実だ。事実を事実として認めないナルではない。
「すごいね、ナル。これは、きっと、ナル、君にしか出来ないことなんだよ」
 嬉々とした兄に、一方、弟は不快そうに顔を歪めた。妙に浮き足立っている兄が解せなかった。
「被験者の体調、精神状態、現段階での能力レベル、潜在的な能力レベルを把握して、それに見合った的確な誘導をすればいいだけの話だ。僕の腕がよいのは事実だけれど、裏を返せば、僕と同等の誘導技術を持つ人間なら、麻衣をこの状態にまで引き上げることは可能だ」
 そうかなー……。そんなことはないと思うんだけどなあ、とジーンは納得がいかないといった風に口を尖らせた。
「麻衣が誰の前でもトランス状態になれるって、ナルは本当にそう思ってるわけ?」
「あれは馬鹿がつくほどのお人よしだからな。隙がありすぎる。考えなしにすぐに他人を受け入れてばかりいる。そのせいで、性質の悪い霊にも何度取り憑かれていたことか」
「んー、もう! どうしてナルはそういう意地の悪い言い方しかできないのかなー」
「事実を有りのままに言ったまでだ。実際、お前も麻衣のそういう隙に散々付け込んできたじゃないか」
「そういうことを言いますか? 言っちゃうんですか!?」
 と、目玉をひん剥いたジーンに、ナルは鬱陶しそうな眼を向けた。どうしてこう、この兄は、いちいちリアクションが大きいのだろう。しかも芝居がかっているところが、なんとも胡散臭い。
 弟にじろりと睨まれて、兄は指先でいじけた様な仕草を見せた。ご丁寧に頬まで膨らませている。
「まあ、否定はしないけどさー」
「当たり前だ。否定できる要素がない」
「ちょっと黙りなよ、ナル」
「……切るか?」
 言うやいなやホット・ラインを本気でぶった切ろうとする弟に、兄は慌てて縋った。
「ちょちょちょっと、ちょっとはお兄ちゃんの話を聞きなさいって」
 だいたい、今日だってナルが先にコンタクトをとってきたくせに、とはジーンは口にしない。それこそ、プライドがとほうもなく高い弟が逆ギレして、問答無用でホット・ラインを切ってしまうことは目に見えているからだ。
(なんだかねーナルも大概素直じゃないよねぇ……)
 ジーンは心のうちでそっと嘆息をこぼす。素直なナルなんていうのも、こちらの精神衛生上大変よろしくないが、いかんせんナルはもう少し自分に素直になってもよいのではないかと、つくづく思う。素直、というよりも、もう少し敏感になるべきかもしれない。今日だって彼は気持ちに余裕を欠いて、兄に縋ってきたくせに。そのくせ、当の本人は己が精神状態にひどく無頓着だ。まさか自分が精神的にふらふらとしているだなんて、弟は思ってもいない。生来のプライドの高さが原因なのか、彼は自分が乱れることなど、有り得ない、と思い込んでいる。ときどき、いっそ本当に気を狂わせてみるのも面白いかもしれない、だなんてジーンは物騒なこと考える。この状態のナルの精神の均衡を崩してやることなんて、ジーンにとって造作ないことだ。
 ナルの片割れたるジーンだけが、ナルを簡単に乱せる。――そのはずだった。
「麻衣は……」
 ぴくりと反応したナルの漆黒の瞳に、ジーンは心のうちで苦笑した。MAI、とたったひとつの響きに、なんて表情をしてくれるのだろう。ナルの心を揺さぶるのは、もはや自分ではない。ジーンはそれを強烈に感じ取った。ナルの時間は、刻々と流れている。まだ見ぬ明日へ、未来へと。
「麻衣はイイ子だよね」
 はあ? とナルは顰め、ジーンは笑った。弟を乱すことができるのは自分だけであったと同時に、この不器用な弟を導くことができるのもまた、己だけだった。ずっとそういう関係だった。それは、彼らが特異な双子であったからこそ自然発生的に生まれた歪んだ関係だけれど、そんな関係なくしては双子は外部の圧力に耐えることはできなかっただろう。この関係が、彼ら双子なりの外界に対する防衛策だったのだ。
 しかし、今や兄は死人だ。弟は時を刻み続け、兄はもう弟と同じ時の流れには身を任せることは適わない。
 こんな関係はよくない。異常だ。
 弟は、それを無意識に否定し、兄に縋っている。弟の其処を兄がつけば、弟は簡単に崩壊する。強固なぶん、柔軟さに欠ける弟だ。粉々になってしまうだろう。
 だから、兄は弟の呼びかけに答える。合わないチャンネルを無理やり合わせてまで、弟の前に姿を現す。拒絶なんてできない。できるはずがない。兄も兄で、弟に寄りかかっているのだ。自分が死人だと知りながら――。
「ジーン」
 黙ってるなら切るぞ、と言わんばかりの弟に、兄は自分がうっかり思考に沈んでいたことに気づいた。
「あああああ、待って、待って」
 ナルはあからさまに嘆息をこぼしてみせた。
「麻衣はとてもイイ子だよ、ナル」
「ああいうのは、馬鹿というんだ」
「イイ子なの」
「…………」
「ねえ、ナル。僕が麻衣のそういう無防備なところに付け込んだは認めましょう。でもねえ、やっぱり僕はこの姿をしていたからね。だから、麻衣は簡単に僕に心を開いてくれた」
 ふふふとジーンが笑う。ナルは微かに眉を動かした。
「麻衣はナルのことを信頼してたんだよ」
 押し黙った無愛想な弟に、兄は一層笑みを深くしてみせた。
「……信頼関係を築くほどの付き合いがあったとは思えないがな」
 ジーンと麻衣が夢のなかでコンタクトを取り出したという時期は、ナルが麻衣と出会って間もない頃でもあったはずだ。少なくともナルはそう記憶している。そして、ナルは自分の記憶に絶対的な信用を置いている。
「僕を信頼していたから、麻衣がお前に心を開いたわけじゃない。僕と麻衣の間に信頼なんてものはなかった。つまり、麻衣は――」
「あーあーあーあー。わかりました。わかりましたよ、ナル。君の言いたいことはわかりまーした」
 どうあってしても、麻衣が無防備に人に心を開く人間なんだと、ナルは主張したいらしい。
「うおっほん。それでは、理屈に凝り固まった弟くん。お兄ちゃんは、君にひとつ問いたい」
 いいかね? とお得意の芝居がかった調子のジーンを前にして、ナルが首を横に振らなかったのは、眼前に迫った漆黒の瞳が真剣そのものであったからだ。
「ねえ、ナル」
 ジーンの口調は、静かな、やさしい響きを孕んだものだった。
「じゃあ、今はどう?」
「は?」
「今の君たちはどうかな。君と、麻衣と、どんな関係?」
 今の会話の流れでどうやったらそんな質問が飛び出してくるのか。ナルには到底理解が出来ない。
「信頼関係、またはそれにじゅんずる関係が築けているか、否か」
 衝撃のあまり兄と同色の瞳を見開いたまま固まっている弟をみやって、兄は薄く笑った。
 兄は弟の耳に顔を寄せて、そっと告白した。
「――ねえ、ナル。僕は、君がうらやましい」
 さあ、そろそろこの弟を解放してがててもよいだろう。そして、自分も解放されなければいけない。
「君と麻衣が手をとって歩く先に、僕は、いないのだからね」
 兄の思わぬ告白に声を失う弟に、そっと笑いかけ、そうして、兄は瞼を閉じた。
 そこでその日のホット・ラインは途絶えたのだった。



「あれ、渋谷さん、どうかしましたか?」
 珍しく昼間から事務所に顔を出していた安原が(大学が休講だったらしい)、所長室から出てきたナルに声をかけた。いかにも不機嫌そうなナルに敏い安原が気づかないわけがないだろうに、それでも彼はふだん通りの越後屋の笑みをたたえている。
 紅茶を……、と言おうとしてナルは口を噤んだ。麻衣はまだ出勤してきていない。そういえば 「明日はテストだ!」 といって、仕事そっちのけで勉強をしていた昨日の麻衣を思い出す。
「渋谷さん?」
「少し。出てきます」
 安原は微かに首をかしげる姿を見せたが、結局それ以上は何も追求せずに、ナルの黒い背中に手を振った。
 外は熱地獄だった。アスファルトが熱気で揺らめいている。
 暑さをこの上なく嫌うナルは、涼しさを求めて、とりあえず本屋にでも行ってみようかと、道玄坂を上る。馬鹿なことをしていると思う。用もないのに、わざわざこんなところに飛び出してきて。
 空を見上げた。木漏れ日の間からこぼれ落ちる光に、何故か昨晩の別れ際のジーンの顔が重なった。
 うらやましい、と。彼はうらやましい、と。
 麻衣の能力の開花はナルあってこそだった、と主張したジーン。麻衣はナルを信頼しているのだ、と笑顔で言ったジーン。今のナルと麻衣の関係を問うたジーン。そして、うらやましい、と言ったジーン。
 唐突に、理解した。
 ジーンは、そうか。
 ジーンは、きっと麻衣のことが好きなのだ。
 ナルは往来のなかで、足を止めた。
 だからジーンはいつだって麻衣に肩入れする。いつだって麻衣、麻衣、といって笑う。今までのジーンの言動がはじめて一本の道で繋がった。
 ジーンは麻衣のことが好きなのだ。そのくせ、ジーンは麻衣のためにならないといって、彼女の前に頑なに姿を現そうとしない。というのも、ジーンは麻衣の気持ちを知っているからだ。麻衣が、いったい誰を想って、誰のために涙を流して、誰のために笑っているのかを、ジーンは知っている。そんな麻衣の気持ちをジーンが受け入れる気がさらさらないのは、受け入れることが不可能であると知っているからだ。彼女の気持ちを受け入れることは、彼女のためにならない。すべては、麻衣のため。受け入れたくないから、受け入れないわけじゃない。
 亡者に捕らわれた人の末を、ナルも、ジーンも嫌というほどに知ってしまっている。それは麻衣も知るところだ。彼女とて決して短くはない時間を、渋谷サイキックリサーチで過ごし、亡き人間たちの恐ろしさも悲しさも身をもって知っているはずなのだから。だから麻衣は麻衣で、己が想いがジーンに受け入れられることがないと知っている。それでもジーンを直向きに想っている。
 あの夏の、少女の涙の慟哭を、ナルは思い出す。うらやましい、と言った兄の顔を、思い出す。
 お互いがお互いを想っているはずなのに、交わることがない想いは、どこに行き着くのか。
 悲しい。
 それは、きっと、悲しいことだ。とてもとても悲しいことだ。
 悲しいなんて言葉を使う自分に、ナルはこそりと笑った。その笑顔がともすれば泣きそうな顔であることに、本人はおろか、誰も知る人はいない。
 坂道を上る途中で、ぐらりと足元が揺れた。
 揺ら揺らと不安定な木漏れ日が意識を過去に誘(いざな)う。ちかちかと点滅しながら、目まぐるしい速さで幾重にも重なり、遡ってゆく記憶。それらに押し潰されるように、ナルは頭を抱えて蹲った。
 何処かで蝉の鳴き声が聞こえる。
 道行く親切な人がときどき、道の中ほどで蹲ったナルに大丈夫ですかと声をかけては過ぎ去ってゆく。
 揺ら揺ら、揺ら揺ら。閉じた瞼の向こう側で、真夏の木漏れ日がしつこく揺らめいていた。まるでそれは警報ランプのよう。
 ――警報?
 いったい何に対する?
 ナルは自嘲気味に口元を吊り上げた。
 揺ら揺ら。蹲ったまま、微かに視線を上げた先で、水面が揺れている。逃げ水だ。
 その逃げ水の向こうから黒い靴がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。靴は逃げ水の上で止まった。
 がんがんと痛みを訴える頭を半ば強引に引き上げれば、黒い衣服を纏った青年と目が合った。
 ジーン?
 ナルは微かに瞠目し、その青年をじっと見つめる。
 否、彼はジーンなどではない。彼は、そう、ナルだ。
 ナルが――自分が、口を開く。胸を押さえ、何かを叫んでいる。蹲るこっちの自分に、今にも倒れてしまいそうな蒼白な面持ちで、何かを訴えている。声は聞こえない。聞きたくもない。こんな自分をナルは知らない。――いや、たった一度だけ。血を分けた兄を喪ったと知ったときの、あの衝撃が、蘇る。木漏れ日と、逃げ水の不安定な揺らめきが、絶望の緑を呼び覚ました。
 激しく痛む頭を抱える。ちかちかと、緑のハレーションは留まることはない。
 やめろ、とナルは頭を振った。頭を占拠する緑を追い払いたかった。これ以上、何を喪うものがある。片翼をもがれた以上の、何が。
「ナル?」
「……麻衣?」
 ちかちかとする視界の端に、見知った少女の姿を見止める。なんというタイミングで現れてくれるのだろう。
「ナル、大丈夫?」
 聞きなれた声がする。ナルは安堵の息を零した。同時に、安堵した自分に気づいて、愕然とした。
「ちょ……ナル、やだ。だ、大丈夫?」
 気遣わしげな声とともに、背中に触れる掌がある。他人に不用意に触れたり触れられたりすることを何よりも厭うナルを知っていないはずではないのに、麻衣はいつだって自然にナルに手を伸ばす。
「ナル?」
 触るな。叫びは、声にならなかった。
 治まらない緑のハレーションに吐き気さえ感じるなかで、ナルの第六感が必死に背中のあたたかな感触に縋りつこうとする。吐き気は酷くなる一方だ。内臓がひっくり返って咽から飛び出してくるかと思うほどの猛烈な吐き気が、生理的な涙の分泌を助長させる。視界が揺れている。こんなにも苦しいのに、涙で滲んだ世界は、きらきらと輝いてうつくしい。
 掴んだ細腕に、ナルの白い指が食い込む。麻衣の小さな呻き声が聞こえたが、ナルは力を緩めなかった。それは当て付けにも似た行為だった。こんなにも苦しいのは何故だ。こんな思いを自分に強いているものは、何だ。誰だ。誰が、僕を……。
 掴まれた腕が痛むだろうに、麻衣は尚も気遣わしげにナルの背中を撫でている。そのあたたかな掌で。
 彼女の掌はいつだってあたたかい。それを、ジーンはうらやましい、と……。
「ナル? ナル?」
 気づいてしまった。
 嗚呼、知りたくなんてなかったのに。こんなにもあたたかな掌が、この世に存在するだなんて。

悪霊|20070715初出|19,19,07