美貌を隠す前髪を退けて、麻衣はナルを睨んだ。自分の身体の一部に他の誰かが触れているということに、ナルは反射的に引き腰しになった。が、麻衣はそれに頓着しない。谷山麻衣という少女は人によく触れる。それが誰だろうと構わず。もちろん相手が、天下のオリヴァー=ディビス博士であろうとも。
「……ナル、寝てないでしょ」
「寝てる」
「嘘おっしゃい」
「嘘ではありません」
 単調な受け答えに、馬鹿にされているような気がして、麻衣はかっと目を開いて、半ば怒鳴るように言った。 「じゃあそのクマは何! あんた、やたら色白だからすっごく目立つのよ!」
「……」
「ほら! 都合が悪くなるとそうやって直ぐに黙る!」
 この手の問答でナルが勝利をおさめたことは、まず、ない。十中八九、麻衣が勝つ。それはそうだろう、とナルも己の敗因を理解している。麻衣の言うことが間違っていないからだ。ただ、ナルに己の生活習慣を改善しようという気がさらさらないから、ナルは幾度となく麻衣を相手に勝ち目のない問答をする羽目になるのだ。
「どうせリンさんが出張してるのをいいことに、夜更かししてたんでしょ。日付が変わるまえに寝ろとまでは言わないから、せめて一時までには寝てってってるでしょう。あのね睡眠不足の状態で何かしたって、全然頭に入っていかないのよ? 効率悪いの! 身体も壊しちゃうから、ちゃんと寝てちょうだい!」
 正論だ。全くもって正論だ。だけどその正論を素直に聞き入れようと思えないのは、ナルの資質か、それとも相手が麻衣だからか。
 我知れず零れたため息は、麻衣の神経を余計に逆撫でしてしまったらしい。まずいな、とナルが思ったときは、もう麻衣は般若の如く凄い形相をしてた。
「もーう怒った! いい!? 今日という今日はしっかり寝てもらいますからね!」



 そうして、気づけば、ナルの腹の上に頭を乗っけてすやすやと安らかに眠る少女がいた。照明をぎりぎりまで落とした室内に、ナルの重い嘆息が響く。
 やっぱりな、とナルは思った。思っていた通りだ。
 だから、自分のことは放っておいてとっとと帰れ、とあれほど言ったのに。
 首を回して何とか時計を見やれば、短針は三の数字を指している。いくらタクシーを使わせようにも、こんな時間に女の子をひとりで帰すというのは、如何なものか。答えは、否、だ。帰すわけにはいかないだろう。
 麻衣との口論を思い出す。ナルを寝かしつけるまで家に帰らないなどとのたまい出した彼女に一番驚いたのは、ナルだ。夜遅くて危ないから帰れなんて口に出して言えるナルではないし、大体あの状況下でそんなことを言ったとしても白々しすぎて、麻衣には即却下されたことだろう(例えばこれが滝川や安原だったら、麻衣は素直に忠告を忠告として聞き入れたかもしれないが)。
 むしろ麻衣には先手先手を打たれた。帰るときはタクシーを使うから安心して欲しいと言う麻衣に、誰もお前の心配なんかしないとナルがいつもの調子で皮肉を言えば、麻衣はにやりと笑って「んじゃ遠慮なくあんたが眠りにつくのを見届けられるわね」と言ってナルの反撃を封じた。ついでにそのタクシー代をSPRに請求しようとしたところが、金銭面において鬼の如くしっかりしている麻衣らしい。曰く、「所長の健康管理のためのタクシー代なんだから、当然事務所から落としてくれるでしょう?」 だそうだ。
 どうしてこういうときばかり麻衣の馬鹿頭は冴えるのだろう。麻衣七不思議のうちのひとつだ。
「つかさ、こうやってあたしに言い負かされてる時点で、あんたの脳みそは正常に機能してないと思うけど?」
 麻衣の最後の言葉は、プライドが山よりも高いナルにことのほか効いた。正論すぎて、ぐうの音も出なかった。
 麻衣の言葉にショックを受けているナルをリビングのソファに無理やり寝かしつけて(ベッドに連れて行かなかったのは、麻衣が男の寝室に入るのはやっぱり女の子としてどうかと思ったからだ)、麻衣はその横で羊を数えだした。
 そして、今に至る。羊が五百匹を超えたあたりまでは、ナルにも記憶があるのだが。
 不覚だ、とナルは思った。絶対に寝てやるものかと半ば意地になっていたというのに、気づいたら眠りこけていた。しかも麻衣と揃って。
「麻衣」
 とりあえず起きろ。苦しくて敵わん。
「麻衣」
 些かの怒気を含めて名前を呼べども、彼女は尚もすやすやと寝息をたてて、目を覚ましそうな様子など露にも見せない。それなら、と、今度は身体を揺すってみる。起きない。もう一度揺すってみる。やはり起きない。こうなったら最終手段だとばかりに、えいやと頭を叩(はた)いてみたが、それでも起きない。ここまで来ると、いっそ天晴れだとナルは思った。
 さて、どうしたものか。
 眉間に皺を寄せて、ナルは考える。麻衣をこのまま放置しておくにも、ナルは苦しくて寝るどころではないし、麻衣も麻衣でひじょうに眠り難そうな体勢だ。フローリングに座ったまま上半身だけソファに向かって前に倒れこむようにして眠っているのだ。これでは目を覚ましたとき、さぞ首や背筋が痛むことだろう。
 ナルはまた嘆息をこぼすと、ソファから身体を起こした。麻衣の身体が固いフローリングに倒れこまないよう慎重に彼女の頭の下から自分の身体を抜き取る。そしてナルはフローリングに両足をつけた。
 さて、どうしたものか。
 ナルは再び考える。このままソファにこの能天気な少女を放置して、自分はベッドに行くか。それとも彼女をベッドまで運んで、自分がこのソファで眠るか。決断はナルの脳内で瞬時に弾き出された。ナルは揺すっても叩いても起きなかった麻衣の身体に腕を伸ばす。彼女に触れるか触れぬかの境界線で、一瞬だけ躊躇うように動きを止め、しかしナルは結局麻衣を抱き上げた。
 重い。
 意識のない人間ほど重いものはない。文句を垂れつつも、ナルは少女の身体を己の寝室に運ぶべく、足をそちらに向けた。
 ぎしぎしとフローリングがナルの足の動きに合わせて、嫌な音をたてた。それが深夜のマンションの一室に響く。
「……ん」
 起きたか? 麻衣の口から漏れた吐息とも言葉ともつかぬ声に誘われるように、ナルは腕のなかの麻衣の顔を見下ろした。
「ジーン」
 今度ははっきりと聞こえたその声。その言葉。その名前。
 思わず床に落としてしまいそうになった少女の身体を慌てて抱えなおした。最悪の事態は免れたものの、彼女の身体への衝撃は思ったより大きかったらしく、少女がうんと身を捩ると、ナルは我知れず息をつめた。どうか今、彼女が目を覚ましませんように。何故か神に祈りたくなった。
 やましいことなど何一つないはずなのに、どうしようもない罪悪感が彼を襲う。
 聞いてはいけないものを聞いてしまった。見てはいけないものを見てしまった。そんな気分になる。サイコメトリなる能力を持つ自分には今更の話だというのに。
 ベッドに麻衣を横たえ、丁寧に布団までかけてやって、ナルはリビングに戻った。どっと疲れた身体をソファに沈めて、ナルは今晩何度目かわからぬ嘆息をこぼした。リビングから寝室までの道のりがあんなに遠かっただなんて、知らなかった。
 きっと今夜も眠れないだろう。そんな予感がする。身体は疲れているのに、頭だけが妙に冴えている。読みたい本が沢山あったはずなのに、何故だか今はとてもそんな気分になれない。忌々しき事態だ。自分らしくない。何が原因だ。いったい誰のせいだ。
 能天気な麻衣の寝顔を思い出して、ナルは舌打ちをした。
 明日、麻衣には 「お前の鼾(いびき)が五月蝿かったからちっとも眠れやしなかった」 とでも言ってやろう。ついでに 「ダイエットしろ」 と言ってやるのもいい。顔を真っ赤にして怒り狂う麻衣を前にすれば、ちょっとはこの胸のもやもやも晴れるかもしれない。
 麻衣を抱き上げた掌を翳し見つめ嘆息を漏らす。そして、朝日が昇るのを待つべく、ナルはそっと瞼を閉じた。

20060703脱稿/20060715掲載/20060805加筆修正

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