「ナル。眉間に皺よってるよ」
硝子の向こうから指摘されて、ナルは一層眉間の皺の本数を増やした。
「やだな。せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
お前は自分と同じ顔にそういうことをしゃあしゃあと言ってのけるのか、と言い返したい己をナルは辛うじておさえ込んで、黙秘権を行使した。兄のこの手の挑発に乗ったら最後――そこからあれよあれよという間に、ナルは根掘り葉掘り秘密事や知られたくないことを暴かれた挙句、仕舞いにはその情報をネタに、兄に散々にからかわれるのがオチなのだ。だから、ナルは黙秘権を断固として行使することにした。
「ナルちゃん、聞いてる?」
「……」
黙々。
「なぁーるぅー」
気色の悪い猫なで声に背筋をぞぞりと震わたナルは、無理やり話題を元に戻そうと強引な舵をきることを決めた。
「ジーン、さっきの事例だが……」
「ナルさーん、人の話はちゃんと聞きましょうねー?」
「その言葉、そっくりそのまま返そうか。人が事件の話をしてたっていうのに、突然、皺だ何だと言い出したのは何処のどいつだ」
「独逸人?」
「英国籍の幽霊が何を言う」
「ジョークを生真面目に返さないでよ。って、ああ、また皺が増えてるよう、ナルー。ほらほら、なんか悩み事があるんでしょ? そうでしょう? お兄ちゃんに、話なよぅ」
「悩みなんぞない」
「あは、悩みがないなんて、あれだね。ナルはとっても幸せものだね」
なんだかひじょうに腹が立ってしかたない。はらわたが煮えくりかえりそなこの怒りをそのまま力に変換して、鏡をかち割ってやろうか、とナルは真剣に考えた。


「ナルってさ、告白されたとき、どうやって断ってた?」
「は?」
「こくはく。されたことあるでしょ?」
今日は妙に麻衣の視線を感じると思ったら、こういう意味だったのか。この馬鹿娘はそんなくだらないことを聞きたがっていたのか。そんなことのために、勤務時間中だというのに、このバイト娘はそわそわとろくに仕事に手をつけていなかったというのか。
呆れてものが言えないとは、きっとこういうことを言うのだろう。ナルは溜息さえ出す気力を失って、ただだんまりした。
そんなナルに、麻衣は小首を傾げてみせる。
「ありりー? されたことない? あるよねえ?」
どことなく小馬鹿にしたような麻衣の物言いに、ナルは思わず 「ないわけでは、ない」 と馬鹿正直に答えてしまった。
と、待ってましたとばかりに、麻衣の顔がきらりと輝いた。
わざとだ。あの小馬鹿にしたような物言いを、麻衣はわざとやってのけたのだ。ナルの忌々しそうな舌打ちを無視して、麻衣はにししと笑う。
「なんだ、やっぱりあるんじゃんか」
「……なんでそんなことを聞くんだ」
「いやー、ナルならそういう女の子をこう……こっぴどくっていうの? なんつーか、取り付く島もない感じで振ってそうだからさ」
なんだかひじょうに失礼なことを言われているような気もしないでもないナルであったけれど、実際麻衣の言うとおりであったので、眉をひそめる程度の抗議で止めておいた。
「そうでしょ?」
「……話が見えないんですが、谷山さん?」
「だーかーらー、あたしが聞きたいことは、ひとつ! 好きでもない人に告白されたとき、ナルならどうする?」
「……」
「何で黙るの」
「それを答える義務が僕にはあるのか?」
「ない」 麻衣はどきっぱりと答えた。 「義務はないけれど、これは人助けになるのよ。ほら、イエス・キリストは言ってたわよ。汝、隣人を助けよ」
麻衣の言うことの意味が、ナルには全くもってわからない。そもそもナルにはわかろうという意思すら欠けているのだが、それにしたって麻衣の意図がまったく掴めないので、さすがのナルも訝しげに眉をひそめた。
さて、麻衣の話の何処から突っ込んでみようか。とはいえ、何処から突っ込むべきなのかも、ナルにはさっぱりだったので、
「――愛せよ、の間違えじゃないか」
と、ナルはとりあえず、律儀にも訂正をしてみる。
「じゃぁ、愛せよ。さあ、オリヴァー=ディビス博士。愛しい麻衣ちゃんのために、一肌脱いでみてください。『告白されたとき、どうやって断ってましたか?』」
マイクを持つまねをして、麻衣はずいと右手で作った拳を、ナルの口元に突きつけた。
おちゃらけた風の麻衣に反して、彼女の瞳はいやに真剣だ。ナルはその瞳を真正面から見つめながら、麻衣の言葉を何度も心のうちで反芻して、彼はむむむと眉にさらに深い皺を刻み込んだ。もやもやと、灰色の感情が、ナルの胸のあたりにせり上がってくる。この感情は何だろう。
「ナル?」
「……生憎ですが、慈善活動には全く興味が御座いませんので」
もやもやとする気持ちを抱えたナルには、そう言うのが精一杯だった。


「……ふーん……『告白されたら、どうやって断るか』……ねえ?」
やたら真面目くさった表情で、顎に手まで添えて唸るジーンを前にして、ナルはそっと嘆息をこぼした。
結局兄の話術にひっかかって、言うつもりのないことを言わされてしまった。どういう流れで麻衣の話になったのだ? 兄の巧みな話術をリフレインさせて、ナルはさらに頭を抱える。
それにしても、ジーンは麻衣の話が大好きだ。よくもまあ飽きないことだ。
「――そんなくだらないことはいい。とりあえず、事件の話をすすめてもいいか?」
「ねえ、それってさあ、つまり、麻衣が告白されたってことだよねえ? どこの馬の骨ともわからない奴に」
それは面白くないなあ、とジーンはひとりごちた。ナルの言うことなんぞ、完全に無視だ。
「誰が麻衣に何を言おうと、それはそいつの勝手だろうに。それより事件の話を……」
「勝手は勝手だけどさあ。じゃあ、ナルはそれでいいわけ?」
「ジーン、事件の話を……」
「事件より、麻衣!」
かっと目を見開いて、くわっと叫ぶ兄の勢いに気圧されて、ナルは口元を引き攣らせた。麻衣だよ、麻衣!といつになく真剣な顔をするジーンを前にして、ナルはただただ呆れ果るばかりだ。
「……僕はお前の優先順位が理解できない」
「何を言うのさ。ナルだって事件の話をしておきながら、ずぅっと難しい顔をしてたくせに。気になってたんでしょ?」
「何が?」
「え、ちょっと、ナル。この話の流れでそういう質問しちゃうわけ?」
麻衣のことに決まってるじゃあないの。と、ジーンは言った。
「麻衣のことが気になって気になって仕方ないんでしょ?」
「なんでそうなるんだ」
「そうじゃないの?」
「そうじゃない。僕はただ今回の事件がやたら複雑だったから……」
だいたい、麻衣麻衣麻衣といつもいつもいつもうるさいのはお前のほうじゃないか、とナルは胸のなかで毒づいた。
「……複雑だったから? 仏頂面してたわけ?」
「……そもそも僕はそんなひどい顔をしていたのか?」
「……」
「……」
「……本気で言ってるの?」
本気だった。
「呆れた!」
ナルの馬鹿ちんめ! と兄は聞き捨てならない台詞を残して、硝子から逃げ出してしまった。彼を追う術を持たぬナルは、ただただ戸惑うばかりだ。兄がいなくなって、ただの硝子となったそこに映る自分は、たしかに眉間に皺がよっていて、それがナルをますます困惑させた。

20070409脱稿/20070410掲載

19,18,05