春の暖かな陽射しは、あの人の笑顔。
 桜の大木の息吹は、あの人の静かな息遣い。
 やわらかな春風は、あの人の両腕。
 桜色の花吹雪は、まるで、あの人からの祝福のようだ。

 例えば、このまま、このやさしさのなかで微睡んだとて。あたしは、あの人にまた会えるだろうか。


 麻衣は慣れないヒールを突っ掛けて、式典を終えて講堂をあとにしようとする人の流れに逆らうことなく、外に出た。強めの陽射しに目を細めたのは、ほんの一瞬のこと。麻衣は栗色の瞳をぱっちり開き、ぐるりと首(こうべ)を巡らせて、人を探す。幸い、すぐに人垣の向こうに手を振っている塊を見つけられた。
 1、2……。
 遠目に人数を数える。
 3・4・5・6。
 7人目は、見当たらない。仮にいるとすれば否応なしに目立つ美貌が、全く見受けられない。
 やっぱり来てないかぁ……。残念だと思う一方で、予想の範疇だと納得している自分がいる。そして心のほんの片隅で少なからずほっとしている自分を認めて、麻衣は苦笑(くしょう)を漏らした。
(やっぱり泣いたのは拙かったかなぁ)
 “あの時”、無表情の下で動揺していた彼を思い出す。
 麻衣は空を仰いだ。賑やかな喧騒。空にはピンク色の花びらが舞っている。薄い藍の縦のボーダー柄のシャツの上から胸元をそっと押さえた。
「麻衣――!」
 手を振る綾子に麻衣は笑顔で答え、そして桜の下に佇む皆のもとに駆け寄った。

 蒼穹の空に満開の桜。―――今日は麻衣の大学の入学式だった。

 講堂と正門を結ぶ広い一本道。両側にずらりと並ぶ桜は、皆堂々と咲きほこり、見渡す限りを華やかに彩る。人の流れは一様にして正門へと流れていた。渋谷サイキックリサーチの面々もその流れに沿って、歩いていた。
「ナル坊め……結局来なかったか……」 滝川はがしがしと頭をかく。
「ほんの数秒も顔出しませんでしたねぇ」 と、安原。
「あんの人でなし……!」 般若の顔で拳を握るのは、綾子。
「まったくですわね」 着物姿の真砂子は、可憐な笑みを湛えて。
「いや、でも、渋谷さんもお忙しいんとちゃいますですか?」 ジョンはいつものごとくへんてこな関西弁を喋る。
「ありえない」
「ありえませんね」
「ありえないわね」
「ありえませんわね」
 間髪いれず全否定されたジョンは苦笑し、それを見守っていた麻衣は乾いた笑いを漏らした。
 リンだけがひじょうに居心地悪そうに俯いて、桜の花びらで埋め尽くされた地面に視線を落としていた。不肖の息子で申し訳御座いません、とリンが呟いたのが聞こえたとか聞こえなかったのか。
 実際、リンにも皆の気持ちはわかるのだ。ただ彼の立場上、どうしてもナル寄りにならざるを得ないだけで。
「いやーでも、ナルも色々と忙しいしさぁ」
 薄いグレーのパンツスーツの袖口を弄りながら、麻衣はもごもごと話す。
「何処が」 綾子は即答し、
「まがいなりにも事務所の所長様ですしね。万年閑古鳥が鳴いてらっしゃるとは言え」 着物の袖口を口元に置き、ほほほと上品に笑いながら真砂子はさらりと酷いことを言ってのけた。
「……いや、依頼は一応きてるんだってば。イギリスからもしょっちゅう依頼は入ってくるみたいだし」
「どうせ片っ端から断ってるんでしょ。気が向かないとかいうフザケタ理由で」
「んー……まぁ……」
「どっちにしろ暇ってことですわね」
 真砂子はその可愛らしい容姿に似合わず、いつだって容赦がない。
「まったく! 一生に一度のイベントだというに!」
 綾子は、そうでしょ?と真砂子を見やる。真砂子は相変わらずの笑顔で、そうですわね、と頷いた。
 あのー……と、麻衣は言った。 「入学式なら、小中高と既に三回経験してますが……」
「大学の入学式は一回でしょ!?」
 今日の綾子様には逆らわないほうが吉。麻衣はとりあえず口を噤んだ。
「本当にあいつは血の通った人間なの!? 氷よ、あいつのハートは氷なのよ! てゆーか真砂子はあれの何がいいわけ!?」
 鼻息も荒く、ずかずかと人ごみの中を歩く綾子は、なまじ派手な服を着ているものだからひじょうに目立つ。周囲を気にして麻衣がまあまあとそんな綾子の肩を叩いてやったが、効果の程は伺えない。
「王子の凍った心を溶かして差し上げるのが、乙女の役目というものでございましょう?」
 ころころと喉を鳴らして、真砂子は朗らかに笑ってみせた。着物の裾の下から悪魔の尻尾が見えたのは、気のせいだろうか。
「まあ、今回はわたくしの個人的な感情を差し引いてみても、少しばかり頭にきてしまいますわね。ええ、ほんの少しばかりですが」
 和風美少女の笑顔の後ろに氷点下の極地の幻影を見た気がして、皆一様にして背筋を凍らせた。ナルへの怒りにまかせている綾子だけが、かっかと頬を高揚させている。
「すみません」
 リンは微かに頭を下げて、麻衣に言った。リンは綾子が怒る理由を心得ている。リンに限らず誰もが、わかっている。おそらくは、ここにはいないナル自身も知らないわけではない。だからこそ、余計に綾子は腹が立って仕方ないのだろう。わかっているくせに、何故。何故、ヤツはここに来ない。
 一生に一度の麻衣の大学の入学式という今日この場にナルの姿がないということが、綾子には信じられない。事務所のレギュラーズ、イレギュラーズ全員が揃って、麻衣のスーツ姿を見ようと大学までやってきたのに、ナルだけがいない。上司と部下と言ってしまえばそれまでのナルと麻衣の関係だが、これまで何度となく大変な場面を一緒に潜り抜けてきた仲ではないか。ただの職場仲間だなんて、綾子は言わせない。
 しかも、ナルは麻衣が天涯孤独の身であることを知っていながら、ついぞその姿を見せなかった。自分たちが行ってあげなくて、誰が麻衣の入学式に行くというのだ。嗚呼、オリヴァー=ディヴィス! 赦しがたし!
「あーんの高慢ちきのこんこんちきー!」
 発狂紛いに叫ぶ綾子を黙殺して、麻衣は首を振ってリンに笑って見せた。リンは頬を引きつらせている。
「祟ってやるわ」
 拳を握って、綾子は地を這うよう声で言った。自称巫女なだけあって、さすがに貫禄がある。
「ナルに何か仕掛けたら、確実にリンさんに呪詛返しに合うよぉ」
 綾子を思いとどまらせようという麻衣の思惑に反して、その言葉は綾子の焔に余計な油を注いでしまったようだ。
「リン!」 綾子がマスカラでばちばちの目をくわっと開いて、リンに詰め寄った。
「……」 リンは無表情を装いつつ、綾子の圧力にぐっと耐えた。
「あいつの教育係なら、たまには教育係らしくしなさいな!」
「……はあ……」
「たまには、お仕置きも必要でしょうに……!」
 お仕置き。
 あのナル相手にいったいどんな、とはご立腹の綾子様に誰も突っ込めなかった。
「まあ仮に綾子があいつを祟ったとして、あいつのお目付け役のリンが綾子に手を下すまでもなくとも、ナル坊本人に返り討ちに合うと思うけどな?」
 いつものパターンだ、と滝川は嘆息を零す。
「うっさいわね! あんただって、いつもナルに遣り込められてるくせに!」
 綾子に気おされて滝川は黙り、安原はそんな滝川の肩をそっと撫でた。
「明日はきっと良き日ですよ、ノリオ」
「あ。明日はお生憎様の雨らしいのです」 ジョンが残念そうに言った。



 麻衣は、道玄坂の中ほどで 「あ」 と呟いた。向かいの歩道で、信号待ちをしている人だかりの中に、よく見知った顔を見つけたのだ。遠めでも美人と分かる彼は俯いて、一心に手元の本を読んでいた。いくら本が好きだからといって、何も信号待ちの合間を縫ってまで読まなくてもよいのに。麻衣はため息を禁じえない。
「ナル!」
 呼べば、ナルはその綺麗な顔をあげて、麻衣を見止める。そして何事もなかったかのように、ふたたび本に視線を落とした。
「……あの野郎……」
 あっさり無視してくれやがって。
 麻衣の声はもちろんナルには届かない。
 今日麻衣の入学式についぞ姿を現さなかったナルの血は氷で出来てるに違いない、と言って憤慨していた綾子を思い出す。まあ間違っちゃいないわよね、と麻衣も思う。こういうとき、ナルは確かに冷血漢の名を欲しいままにしていると、麻衣はつくづく実感するのだ。

 信号を渡ってきたナルは、麻衣を軽く一瞥しただけで、坂を上ってゆく。だから無視すんなよ、という麻衣の心のツッコミはやはりナルには届かない。後姿のナルの右手には、大きな紙袋が引っ提げられていた。その紙袋に印刷されたロゴは、麻衣もよく知っている洋書専門店のものだ。麻衣は嘆息を零し、鞄を肩にかけ直した。
「本、持ちましょうか、所長さま」
 振り向いたナルに向かって、麻衣は空いた両手を差し出した。
 ナルはほんの数秒麻衣を見つめ、そして徐に右手の紙袋から本を三冊ほど取り出して、麻衣の手の上に無造作に置いた。
「あれ?」
 麻衣は瞬いて、ナルを見上げた。
「こんだけ? あたし、もっと持てるよ?」
 麻衣は肉体労働専門の調査員として日頃ナルに散々こき使われているのだ。いつもだったらその大きな紙袋全部持てとも言いかねない男の奇行に、薄ら寒いものさえ感じる。
「そんな格好で持てるとは思えないので」
 冷ややかに麻衣の足元を見て、ナルは言った。
「格好ー? ああ……」
 なるほど。麻衣は己の靴を見て、笑う。ヒールのやや高めの黒いパンプス。綾子ならまだしも、ふだんは専らスニーカーかぺたんこのサンダルを愛用している麻衣には珍しい靴だ。
「大丈夫だってば」
「僕にはそう思えません」
 取り付く島もなく言い放って、すたすたと事務所へと歩いてゆこうとするナルの後ろを、麻衣は慌てて追いかける。慣れない靴で走るのは、確かに危なっかしい。
「お気遣いありがとうございます」
「大切な本を落とされては堪ったものでは御座いませんので」
「あ、そ」
 ナルの左肩やや後方。ナルの綺麗な横顔が見えるか見えないかの場所を、麻衣はいつも歩く。ヒールのせいで歩調がいつもよりやや遅めであるはずなのに、今も麻衣は同じ位置に立って歩いている。ナルの顔をこそっと覗き見て、麻衣は忍び笑いを漏らした。
「何だ」
「なーんでもー?」
 こういうところがね、ただの冷血漢じゃないのよ綾子さん。真砂子の眼は、確かだ。見てくれはともかく、その中身が御伽の国の王子様とは程遠いナルだけれど、悪い男では決してない。良い男とも断言しきれないとことが、少々難ではあるが。
 怪訝そうに眉を寄せるナルに構わず麻衣は言った。
「そうそう。ナル、今日は依頼来た?」
「さぁ」
「さあって……まさか、あんた、ずっと所長室か資料室に篭ってたんじゃ……」
 沈黙は肯定だった。都合が悪くなると黙るのは、彼の十八番だ。
「……ちょっとはお仕置きとやらを受けるがいいかもね」
「は?」
「いえ、こっちの話です」
 不審げなナルを放っておいて、麻衣は渋谷の空を見上げる。
「明日は雨なんだそうだー」
 ナルは答えない。もしかしたら聞いていないのかもしれない。
「昨日も雨だったもんねぇ」
 昨日、所長室の窓越しに見た雨景色をリフレインする。あの時泣いてしまったのはやっぱり拙かったなぁ、と麻衣は改めて思う。
「今日、晴れたのはさ」
 麻衣は息を吸った。身体が緊張で強張っているのがわかる。この言葉を、この名前を、この響きを、ナルの前で口にするのは随分と久しぶりだったからだ。
「――もしかしたら、ジーンのおかげかもねぇ」
 麻衣は努めて軽い声色を心がけた。やはりナルの返事はない。
 見上げたままの空をピンク色の花びらが舞っている。そこで、ジーンが笑っている気がした。
「ジーンがね、おめでとうって言ってくれたんだよ」
 麻衣は笑顔で言った。ナルがちらりと麻衣を一瞥した。
 いつ、とは敢えて言わない。ナルは、きっと知ってる。あのとき――麻衣がジーンの姿を久しぶりに見たあの日――不覚にも流してしまった涙を、ナルは知ってる。


 朝から降る雨のせいで鬱々としてた麻衣のもとに、放られた小さな箱。驚く麻衣に、入学祝だとナルは抑揚のない声で言って、さらに麻衣を驚かせた。そのまま何事もなかったかのように所長室に消えてしまったナルに気をとられながらも、麻衣はとにもかくにも箱を開け、そして奇声を上げて、そのまま所長室に転がり込んだ。
「しょ……所長……!!」
 既にデスクチェアに腰掛けてファイルを開いていたナルは眉を顰(ひそ)め、目だけで 「何事だ」 と言った。麻衣はナルにずいとネックレスを突きつけた。箱を開けたら、このネックレスが出てきたのだ。
「……いらないのか?」
「違う! つけて!」
「…………」
 ナルに命令できる人間なんぞ、きっとこの世で数えるほどしかいない。普段なら麻衣の言うこととて滅多に聞かないナルが、このときばかり麻衣の言うままにネックレスを手にとったのは、麻衣のあまりの迫力に負けたからだ。
 嘆息と共に椅子から立ち上がったナルを、麻衣は窓際に連れてゆく。部屋の様子が映りこんだ窓の前に麻衣が立って、その背後にネックレスを持ったナルが立って。
「早く!」
「暴れるな!」 幼児のようにせっつく麻衣を、ナルは苛立たしげに一括した。動かれては出来るものも出来なくなる。
 麻衣は 「怒鳴るなよぅ。ナルちゃん」 などとぶうたれたが、一応は大人しくなった。早くネックレスを付けてもらいたいのだろう。本当に幼児のようだな、というナルの内心の吐露は麻衣には届かない。
 かちゃかちゃと麻衣の耳元で貴金属が鳴っている。というか、一向に鳴り止まない。
「……下手くそ」 麻衣は、はははんと鼻で笑った。
「……」
「あイテ!」
 ナルがぺちりと一発頭を叩(はた)いてやれば、麻衣が恨みがましく振り返ってきたものだから、彼はもう一度 「動くな」 と一括した。どうしたって女のアクセサリーというものは、こうもちまちました作りをしているのか。この手のものに触れる機会の極めて少ないナルにはひじょうに理解しがたい。
 後頭部にナルの嘆息を感じて、麻衣はふふと笑った。と、麻衣は麻衣と目が合った。窓硝子に麻衣とナル、ふたりの姿が、向こう側の雨模様と一緒に映りこんでいたのだ。俯き加減に麻衣の首もとでネックレスと格闘しているナルを硝子越しに見やって、麻衣は再びふふふと笑う。研究や事件以外のものに眉間に皺を寄せて真剣に取り組んでいるナルが珍しかった。
 窓越しの彼を見つめながら、麻衣は思う。つくづくナルは美人だ。観賞するにはもってこいのその容姿。ただしこれが喋りだすととんでもないのだが。
 ふと、硝子の向こうのその美貌が面をあげた。水をうったかのように静かな漆黒の瞳が、麻衣をとらえ、そして――にっこりと笑った。
「……」
 瞬間、麻衣は呼吸さえ忘れた。自分の見たものが信じられない。自分の目が信じられない。網膜に張り巡らされた視神経を疑った。驚き、目を見開く麻衣に、彼はあの懐かしいやさしい笑顔を向け、そして。
「おめでとう」――と。
 声は聴こえなかった。でも、彼の口は確かに“おめでとう”の五文字を形作っていた。見間違えなどではない。見間違えたりなんかしない。
 ジーン……。麻衣の声は空気を震わせることなく、喉の奥で、消えた。
 かちり。首筋から冷ややかな体温が遠ざかる。胸元で控えめな輝きを放つのは、小さな宝石。
 ジーンは、もう硝子のなかにはいなかった。
「麻衣」
 遠く、硬質のテノールが聴こえる。
 ああ駄目だ、と麻衣が思うよりも早く、それははらりと零れ落ちた。はらり、はらり、とそれは静に頬を伝い、顎を伝い、落ちる。
 ナルは麻衣の背後にいる。だけど、硝子越しに麻衣の顔が見えていることだろう。
 ああ嫌だな。涙が止まらない。
 嬉しくて。嬉しくて。ジーンに一瞬でも会えたことが嬉しくて。
 突然プレゼントなんぞ寄越してきたナルの奇行にもようやく合点がいった。おおかた麻衣にプレゼントを買おうと言い出したのは、ジーンだろう。発案者はジーン。でも、これを実際に購入したのはナルだ。何せしがない浮遊霊はお金を持っていない。
 これは紛れもない、双子からのプレゼントだった。例えば、これがただの硝子球の安物のネックレスだったとしても。例えば、これがセンスの欠片もないへんてこなネックレスだったとしても。麻衣は同じように、嬉しく思ったことだろう。
「ナル」
 硝子越しに、ため息が零れるほどに美しい顔を見る。振り返らなかったのは、せめて生の涙を見られるのが嫌だったからだ。
「ありがとうね」
 ナルは答えなかった。


 あの場では何も追究してこなかったけれど、あの時、ナルが無表情の仮面の下で微かに瞠目していたのに、麻衣は気づいてしまった。あの時、麻衣は自分の気持ちを抑えるの精一杯で、そんなナルにフォローをするどころではなかったから、何も言えなかったけれど。
 今なら、この青空の下、笑顔で言えると思うのだ。

 ―――あたしは、大丈夫だ。
 もう本当に大丈夫なんだよ、ナル。

 このまま想いを抱えて、笑って、青空の下を歩いてゆける。だって、ジーンはそこにいるんだもの。
 あたしは笑える。


「あのね、泣いてごめんね。もう、泣かないからさ」
 ナルは答えない。
「ありがとう。ジーンにもありがとうって言っておいてね」
 笑って、その名前を口に出せるようになった。彼の双子の弟の前で、彼の話を出来るようになった。
「気が向いたらな」 ナルは前を向いたまま振り向きもしない。
「気を向かせてください」
 ナルは答えなかった。
「あのネックレス、今日つけてるんだよ」
「どこに」 ナルはやはり前を見たまま。
「首に決まってる……って、ありゃ」
 そうか。シャツで見えないのか、と麻衣はよっと三冊の分厚い本を左腕一本で抱え、右手で胸元から例のネックレスを取り出してみせた。
 ナルが振り返る。
 ね? と麻衣が歯を見せて笑えば、ナルはため息交じりに言った。 「フックが前によってる」
「え!? うひゃぁ、しまったしまった。あ、ど、どうしよ……」
 フックを後ろに回そうにも、如何せん片手では無理だ。持っている本を道玄坂の汚い道路の上に置くのは、さすがに憚れたし(尤もそんなことをしたら、世にも恐ろしい所長の雷がどかんと落ちてくる)、でもフックが前によったままだなんて格好悪くて嫌だ。
「持ってろ」
「は?」
 右手に無理やり持たされた紙袋は、麻衣が想像していた以上に重かった。
「おおおおおお重いっす、しょちょー!」
 これを軽々と持っていた細腕が、ぬっと正面から伸びてきた。麻衣の腕の太さとさほど変わりなさそうなそれのいったいどこに、この重い袋を持ち続けるだけの力が隠されていたとうのだ。
「落とすなよ」
「お、鬼!」
 ナルの掌が麻衣の胸元に寄り、左手の綺麗な指先が宝石を押さえた。チャリチャリと小さな音が、麻衣の鼓膜を揺らした。ナルの右手がチェーンを回しているのだ。
 ち、近い! 近いです、所長! つか、人! 人が見てる!
 やましいことはないとは言え、この距離は恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
 麻衣の悲鳴にも似た声は、ナルに届かない。驚くあまり声も出なかったのだ。
 ややあって麻衣に覆いかぶさっていた影がひいた。麻衣はほっと息をつき、そして首をこきこきと鳴らした。首の裏の骨あたりに、フックがある感触がした。
「あ、ありがとう……ございます」
「いーえ。では行きましょう、谷山さん」
 さっと黒いジャケットの裾を翻して坂を上っていこうとするナルを、麻衣はちょっと待てを呼び止めた。
「な、ナル!」
「何だ」
「本! 本持って!!」
 左肘に鞄。左手に本を三冊。そして右手には、数えるのも恐ろしいほどに分厚い本がたんまりと詰め込まれた紙袋。
「肉体労働はお前の仕事だろ」
 にっと笑うナルの顔の凶悪なこと。麻衣は早くも悲鳴を上げ始めている自身の右腕を感じながら、立ち尽くすより他なく。

「こんの人でなし――――!!」
 やっぱりあんたの血は氷だ!

 渋谷は道玄坂。人ごみの喧騒も何のその。ものの見事にあたりに響き渡ったひとりのいたいけな少女の悲鳴を、軽やかに笑いとばすかのように、桜色の花びらが一つ、空を舞った。


20060706脱稿/20060720掲載/200060801加筆修正

19,18,04