完全防音が敷かれたはずの所長室内へときんきんと届いてきた喧騒に、静寂をこよなく愛する(騒音を徹底して嫌う)所長室の主はその柳眉を不快そうに寄せた。とりあえずは無視を決め込もうと、ふたたび手元の分厚い文献に視線を戻したのだが、一度途切れた集中力はなかなか元通りにはならなかった。何時間もぶっ通しで仕事漬けになっていたが故の疲労が、ナルの集中力を削いだのかもしれない。眉間に指先を押し付けて、ナルは目を閉じる。
外の喧騒は治まるどころかますます大きくなる一方で、いつになっても止みそうになかった。
重い嘆息と共に、仕方なしに所長室の扉を開けてみれば、いつの間にこんなに集まっていたのやら――そこには渋谷サイキックリサーチのレギュラーズ、イレギュラーズがずらりと勢ぞろいしている構図があった。何事かに夢中になっているらしい彼らは、所長室から姿を現したナルに見向きもしなければ、もちろん彼の眉間の皺にも気づきもしない。
「リン」
騒ぎを一歩ひいたところから見守っていたらしいリンを呼べば、彼はすぐにナルのもとにやってきた。
「ナル、休憩しますか?」
「何の騒ぎだ」 リンの言葉を無視して、ナルは不機嫌そうに言った。
「谷山さんに通知が届いたみたいです」
「通知?」
「先日の大学受験の合否結果だそうで」
「ああ」
それであの騒ぎか。合点はいった。だが、納得は出来ない。何をあんなに騒ぐ必要がある。
ナルの嘆息はしかし、大騒ぎの彼らには届かない。誰が開けるだの、開けないだの。誰が見るだの、見ないだの。合格してるか、してないかだの。神の力で透視しろだとか、無茶も甚だしい議論を大真面目に彼らは繰り広げている。結果はすぐそこにあるというのに、彼らは飽きもせず騒ぎ続ける。しかも迷惑なことに、ナルの事務所内で。
「……事務所に通知が届いたのか?」
「いえ、今朝方、谷山さんのお宅に届いたらしいのですが。おひとりでご覧になる勇気がなかったそうで」
「馬鹿か……」
ひとりで見ようが、大勢で見ようが、結果は変わらないというのに。
ナルは冷ややかな目で騒ぐ面々を傍観していたが、すぐにこの騒ぎに堪忍袋の限界が来たのか、つかつかと騒ぎの中心の麻衣のもとに歩みより、そして封筒を白い手からひょいと抜きとった。
途端、収まる騒ぎ。皆、一様にして固まっている。
「な、何す……」
少女の乾いた声に、ナルはいつになくやさしく笑ってみせ(その笑顔が事務所メンバーすべての背筋を凍らせたのは言うまでもない)、そしてさも当然と言わんばかりの自然な所作でぴりっと封筒の端を破りにかかった。
「ナ……!」
嗚呼、なんてことを!
麻衣の悲鳴を黙殺して、ナルは封筒を破り続ける。麻衣は既に顔面蒼白。他の面々はごくりと生唾を飲み込めども、ナルの静かな暴走を止めにかかろうとはしない。ただナルを見守るのみだ。ぴりぴりという小さな音と緊張感に欠けた空調の音だけが、無機質な事務所内に響いていた。
ぴり。要をなくした切れ端は、ごみ箱に。封筒のなかを綺麗な指先があさり、するっと抜き取られたのは丁寧に折りたたまれた薄い紙。こんな薄っぺらい紙一枚のために、事務所の平穏が破壊されていたのかと思うと、憎しみにも似た気持ちがナルのなかでふつふつと沸き起こった。
不機嫌もあらわなナルはもはやいつものことだけれど、今日に限って麻衣にはそんなナルの微かな表情さえ多大な刺激となって襲い掛かる。もはや、彼女は呼吸もろくに出来ない始末だ。
「ナ、ナル……」
瀕死の麻衣の声はやはり氷の美貌の前に黙殺され、ナルはまるでガス代や水道代の請求書を見るが如くの何気なさで、その薄いその紙をぺらりと捲った。
嗚呼!
麻衣は思わず両の掌で顔を覆った。通知を見ているナルを見ることさえ、今の麻衣には耐えられない。麻衣の肩に食い込むのは綾子の指先か。耳障りな荒い鼻息は、滝川のものか。
沈黙。
そろそろと顔をあげれば、無表情な美貌がそこにあった。
「ナ……」
もはや言語障害かと思しき麻衣の額にぺいとその紙を軽く叩きつけて、ナルはその形の良い口を開いた。
嗚呼! しゃべってくれるな!
麻衣の叫びは、ナルには届かない。そもそも人の心の叫びを、受け取ろうという気がナルにはない。
「Congratulations」
「は?」
あまりに流暢過ぎて聞き取りにくかった英語に、麻衣の思考が固まる。
「Congratulations, Mai」
Congratulations―――つまり……。脳内の和訳の結果に、麻衣は目を瞬かせる。しかし、ナルの抑揚に欠けた声色に人様を祝福しているような響きなど一切無く……。
ぼけっとしている麻衣に、馬鹿にしたような笑顔と、そして例の薄い紙を残して、ナルは所長室に消えてゆく。
背後に揃うギャラリーの視線を背負いながら、麻衣はそろそろと薄い紙を今度は己の手で開いて、見た。
曰く、合格おめでとうございます。
わっと沸き立つ面々。その瞬間、事務所の騒ぎは本日の最高点を記録した。同時に、ナルの苛立ちも頂点に達しかけていた。
「ナル―――!!」
麻衣の歓喜の叫びと同時に、ナルの背中に走った息さえ止まるほどの衝撃。ナルは前につんのめりそうになった身体を何とか持ちこたえて、背中に圧し掛かる体温を怒鳴りつけた。
「麻衣!」
構わず腕を回してくる麻衣に対して、ナルのなかで咄嗟の防衛本能が反応する。放せと麻衣の身体を押し退けようと、その肩に手加減なしに力を加えて、そしてナルは固まった。思いのほか肩が華奢だったことも驚きであったが、それ以上にその華奢な肩が震えていることに気づいたのだ。
「ありがとうありがとう! ありがとう、ナル!」
「……お礼なら、お前みたいな大馬鹿者を拾ってくれた馬鹿な大学に言ったらどうだ」
「うん!」
ナルの嫌味も全く通じないほどに舞い上がってる麻衣は、涙でぐしゃぐしゃな顔で頷く。
「ありがと! 本当にありがとう、ナル!!」
「だから……お礼は……」 馬鹿を受け入れた馬鹿な大学に……。
「うわーん! ナルぅぅー勉強教えてくれてありがとうねぇ!」
そういう礼なら、むしろ安原にすべきではないのだろうか。麻衣に頼み込まれて嫌々講義したにすぎないナルなんぞより、安原のほうがよっぽど麻衣の勉強を親身に見てやっていたのだから。ナルは安原を見やる。かくして「越後屋」安原は彼らしい真意の全く読めない笑みを浮かべ、咽(むせ)び泣く麻衣と彼女に抱きつかれているナルを見守っていた。明らかに困っているナルを助けてくれる気はさらさらなさそうだ。他の面々も然り。この反応が、日頃のナルの行いの悪さの結果なのだと、ナルがわかるはずもなく。
「ありがとう、ありがとー!!」
麻衣の興奮はおさまらない。
仕方なしに、色素の薄い髪を撫でるように叩き、ナルは嘆息と共に言った。
「おめでとう、麻衣」
20060704脱稿/20060717掲載
19,18,03