人質ならぬ物質をとられてしまっては、いかんともしがたし。ナルとてこの真冬の夜の寒空の下をコートなしで帰ろうとは思えない。
ナルの黒いコートを毛布代わりに。滝川の膝を枕代わりに。そして事務所のソファをベッド代わりに、すやすやと寝息をたてているバイト調査員の少女を、ナルは怨めしげに見やった。起きろ、起きろと、念を送ってみるのだが、すっかり眠りこけている彼女は全く起きる素振りを見せないのだ。
いっそPKで攻撃してみるのもいいかもしれない、とナルは思った。別名野生動物の麻衣なら、危機を察知して、眼を覚ますかもしれないし。
「ナル、物騒なことは考えるなよ」
眠る麻衣の色素の薄い髪を梳くように撫でながら、滝川はナルに言った。
「僕はいい加減に家に帰りたいんだが……」
「綾子がもう少しで、これを迎えに来るからよ。それまで待っててやれや」
「……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど。こんなところで寝て、風邪でもひいたらどうするつもりなんだか」
いよいよ翌日に控えた、麻衣の大学受験。難関とまではいかなくとも曲がりにも国公立大学を狙う彼女の前に立ちはだかるハードルは決して低くない。明日のために必死に努力してきた彼女を少なからず知っているだけに、ナルの嘆息は深くなる。
そもそも今日は仕事を休んでもいいとナルは麻衣に言っておいたのだ。ナルがそう言った背景には、翌日に控えた試験に気をとらわれているであろう麻衣に事務所に来てもらっても仕事には到底なりえないだろうという確信にも似た予想や、麻衣を思いやるリンの助言があったりもしたのだが、一応はナルなりの最大限の麻衣への心遣いだったのだ。だのに、麻衣はその心遣いをあっさり無視してくれて、今日も今日とて事務所にやってきては、こんな時間まで事務所に入り浸り、仕舞いには眠ってしまったというのだから、ほとほと呆れてしまう。
「まあ馬鹿は風邪を引かないと言うし?」
かかか、と滝川は豪快に笑う。
「馬鹿なら尚更ぎりぎりまでしっかり勉強しておくべきだろう」
「ひとりでいたくなかったんだろうよ」
滝川は色素の薄い髪を梳く手はそのままに、言った。
「お前さんも、こいつに頑張れぐらいの一言ぐらい言ってやれよ」
「……頑張ってる人間に、これ以上頑張れと言ったところでどうしようもない」
嘆息を溢し、滝川は額に手を当てた。
「だから、お前さんは駄目なんだよ。いいか、要は気持ちの問題だ。誰かが自分を応援してくれてるってわかるだけで、人は100%以上の力を出せるときがあるんだ」
「気持ちの問題なればこそ敢えて言葉にする必要はない」
「思ってるだけじゃ通じないものだってあるってことさ」
特にお前さんは存在自体がブリザードみたいだからなぁ。心のうちで思ってることが、なかなか通じないのさ。滝川は言う。
ナルは押し黙った。
「真砂子は特製のお守りをくれてやったみたいだし、ジョンは麻衣に洗礼してやってたし。んで、俺は護符。試験中に金縛りなんかなっちゃ笑えねぇしな。越後屋は越後屋問題集をプレゼントだろ? 綾子は今夜麻衣を家に泊めてやって、明日は弁当を作ってやるんだとさ。あ、リンは、麻衣を試験会場まで車で送ってやるんだそうだ」
リンまでか。ナルは眉間に皺を寄せて、資料室の扉を見やる。リンは資料室に篭ったまま出てこない。
「皆、こいつに甘いんだよねぇ」
「ぼーさんも大概、甘いと思うが」
「なんたって、愛娘だからなぁ」
「犯罪にだけは走らないで下さいね、滝川さん」
「そーゆーこと言ってると、お前がこいつのこと欲しいと思ったときが来ても、お父さんは絶対に許してあげませんよ」
「ありえない未来を想定するだけ無駄だ」
可愛くないねぇ。滝川は顔をしかめた。可愛いとも思われたくないナルには、痛くも痒くもなかったけれど。
んー……と寝言らしきものを呟きながら、麻衣は身体を丸める。まるで猫のように。ナルの安物でないコートは既に皺くちゃだ。
「ナル坊」
視線だけあげて、ナルは滝川に先を促した。
「お前さんは、麻衣にこのコートをレンタルしてやったらどうだ」
そしてコートなしで、この寒空の下帰れというのか。
「……僕を殺す気か」
殺せるものなら、是非殺してみたいね。そう言って笑う滝川を無視して、ナルは目を閉じた。
それは嘗て兄と共有していたライン。今はもうほとんど錆び付いた、ライン。それを眠る少女に繋いでみようかと試みる。
―――せいぜいおっちょこちょい間違えだけはしないように、頑張ればいい。―――
届かないとわかっていながら、ナルは心の中で、麻衣にそっと囁いた。
20060713脱稿/20060724掲載
19,18,02