「ふんぬー!!」
 都内の高級高層マンションの一室に響くのは少女の奇声。
 山積みされた参考書やら辞書に囲まれながら、頭を掻き毟るその少女―――谷山麻衣は、もはや発狂寸前の勢いだ。
「ナル! あんたはもっとこう下のレベルに合わせようとか、そういう気にならないわけ!?」
「僕の教え方が気に入らないというのなら帰ってくれて全然構わないが? むしろ僕としては是非ともお前には帰ってもらいたいね」
 お前がいると研究の邪魔だ。ナルはにべもなく言い放った。
 何という言い草! 前々からわかっちゃいたことだけど、つくづく頭にくる男だ。
「あんたね! ちょっとは人に協力しようとかそういう気にならないの!? あたし受験生なんだよ!? じゅ・け・ん・せ・いっ。しかも追い込み真っ最中なの! 切羽詰ってるのよぅ!」
 涙ながらに訴えたところで、冷血漢を地で行くような男には通用しない。この手のタイプに情に訴えても、駄目なのだ。そもそも彼は情なんてものを持ち合わせていないのだから。
「僕は充分協力してる」 しゃあしゃあと言ってのける男は、どこまでも偉そうだ。
「偉そうにすんな! ナルの場合、あたしに協力して当たり前なのよ! だいたいねぇー、ナルがあたしを散々扱き使ってきたのがいけないの! おかげで成績は最悪、出席も足りてないから推薦なんてもらえるわけもなかったし!」
「例えば、僕がお前の立場だったら、僕は上手くやってた」
 言外で、お前が馬鹿なのがそもそもいけないのだ、とナルは主張する。なまじ否定できないだけに、麻衣は悔しくてたまらない。
「えーえーそうでしょうとも! あんたは天才ですからね! あたしはどうせ馬鹿ですからね!」
「馬鹿は大変だな」
 わざとらしいことこの上なく哀れみの眼差しを作って、ナルは言った。
「この…!」
 戦慄く麻衣は我知れずシャーペンを思いっきり握り締めた。畜生め。このペン先をこの男の脳天に突きつけてやりたい!
 いよいよ目がすわりだした麻衣を見やって、ナルは嘆息を漏らす。
「……安原さんはどうした」
「そんなに毎回毎回安原さんに迷惑をかけてもらんないでしょ。大学はそろそろ定期試験だっていうし……」
 些かへしゃげたようにも見えなくもないシャーペンを放り出して、麻衣は言った。
「僕には迷惑をかけてもいいと?」
「ナルはあたしにしょっちゅう迷惑事厄介事を押し付けてくるから、いいの」
「それが不満なら、事務所を辞めてくれても構わないが」
 硬質なテノールは平素となんら変わらぬ響きだった。
「……」
 息をのんだのは、麻衣。そんな麻衣を見て、ようやく己の失言に気づいたナルもまた珍しく息を詰まらせた。後悔という文字ほど、ナルに似つかわしくはないけれど、確かにそのときナルは後悔をしていた。頭のどこかで、麻衣贔屓の兄の絶対零度の怒声が聞こえた気がする。幻聴でないこともなきにしもあらずというのが、恐ろしい。
 麻衣のなかにある傷を抉った。そういう自覚がナルにはある。麻衣の深いところに根付いて消えない傷や幼い頃感じた喪失感と、ナルの無神経な発言とが引金となって、笑顔を失った顔が蒼白とし、引きつっていた。
 ナルからすれば、何をどうこうと深く考えたうえでの発言ではなかった。ナルにはいつもの軽口の応酬の延長線上という認識程度しかなかったのだが、対する麻衣は決してそうは思えなかったらしい。否、麻衣とてナルのそんな心のうちぐらいわかっていたはず。にもかかわらず、麻衣は冗談を冗談として流せなかった。おそらくは、間近に迫った受験で、ナーバスになっていたのだろうとは思うが。
 嫌な沈黙。
 少なくとも、ナルにとってはひじょうに居心地の悪い沈黙だった。自分の非を認めているぶんだけ、余計に。
「麻衣……」
「辞めないよ」 ソプラノに、いつもの溌剌とした響きはない。
「……」
「辞めてなんかやらないんだから。事務所辞めちゃったら、あたし本気で路頭に迷っちゃうもの」
 ふうとナルは息をつくと、椅子に深く座りなおし、改めて麻衣に向き直った。
「で、何処がわからないんだ」 麻衣の手元の数学の問題集を覗き込む。
「……ここ」
 細い指がとんと指した問題を読んで、ナルは眉を顰(ひそ)めた。
「どうしてこんな問題が……」
「う、うるさいなぁ!」
「正真正銘の馬鹿だ」
 しみじみとナルは言う。
「あんたね…!」
 馬鹿馬鹿って人を何だと……。何様のつもりだ? 嗚呼、そうか。ナル様だ。最悪だ! 畜生め!
「馬鹿だけど、貴重な調査員だからな」
 はっと麻衣は驚いたように顔をあげ、ナルの顔をまじまじと見つめた。
 ナルは問題集に視線を落としたまま、麻衣のほうには見向きもしない。
「悪かった」
 小さくもよく通るテノールは、麻衣の耳にしっかりと届く。ややあって緩んだ麻衣の口元に、はたしてナルは気づいたのか。
「……あとで化学も教えてちょうだいね」
 ようやっと顔をあげたナルの眉間には、深い皺が刻み込まれていた。

 今のナルに拒否権はない。


20060704脱稿/20060717掲載)

19,18,01