鏡を介しての双子の逢瀬は、決して多くはない。
その少ない時間の大半は双子の弟の携わる調査のために費やされ、そして残りのほんの少しの時間のうちで、刻(とき)の流れから見放された兄は、刻に縛られる弟に天真爛漫な少女のことをしばしば尋ねた。何も対人認知が著しく低い弟にわざわざ尋ねなくとも、兄にも少女にも直にお互いに接触を持つだけの充分な能力が備わっていたというのに、だ。
「だって僕が今更しゃしゃりでちゃあマズイでしょ」
そんなにあの少女のことが気になるのなら自分で会いに行ってやれ、と億劫そうに文句を言う弟に、兄はさも当然と言わんばかりの口調で答えた。
「麻衣はお前のことをいつも気にかけているようだが?」
ジーンが阿川家の事件以降、麻衣のもとにただの一度も現れていないことを、ナルは知っている。一方で、ジーンが合わないチャンネルを無理やり力づくで合わせてまでして、ナルに会いに来ていることを、麻衣は薄々感ずいている。麻衣がナルにジーンのことを直接尋ねてきたことはないものの、何か言いたげな視線を麻衣がナルに時たま送っていることを、ナルは知っている。ナルがその視線に自ら応えてやるような親切な人間ではないので、麻衣がジーンの近況を知りうるような機会は今までなかったわけであるが。
「“気にかけてる”……ねえ? あは。ナルにしては慎重な言葉選びだね」
「……ジーン」
多分に揶揄のニュアンスを含んだ物言いをする兄を、弟は睨(ね)め付けた。
「あいつはお前のことが好きなんだ、と言ってやったほうがよかったのか」
ナルには他人の恋愛沙汰への興味なんぞ皆無だけれど、それが当事者達にとってはひじょうにデリケートな問題であることぐらいは承知している。だからこそ、我ながららしくないと自覚しつつも、曖昧な言葉を意図して選んだうえでの発言だったのだが。
「そんなにカッカしないでよ。怖いなぁ」
――嘘をつけ。
へらへらと笑うジーンに、ナルは心のうちで毒づいた。
「ジーン……」
「うん、わかってるよ。でもね、だからこそ僕は麻衣に会いに行けない」
やわらかな口調には、しかし一字一句断固たる決意が滲み出ていた。
「会いに行っちゃいけないんだ」
まるで己自身に言い聞かせているかのような兄の台詞に、ナルは微かに眉を寄せた。
「月並みな表現だけどね、僕は麻衣に幸せになって欲しいんだよ」
「その麻衣は今、お前に会えなくて、えらく萎んでるが」
「嫌だなぁ、ナル。わかってるくせに。例えば僕がここで麻衣に会いにいったって、それは何の解決にもならないんだよ。僕は死んでるんだからね」
つまりはジーンに麻衣の気持ちを受け入れてやろうという気はさらさらないわけだな。麻衣が今も尚ジーンを想っていることを知っているだけに、さすがのナルも、一抹の同情を麻衣に覚えた。
「死者は生きてる人間と共には歩めない」
はっと顔をあげたナルに、ジーンはやわらかく微笑んだ。
そもそも僕がこうやって、君と話をしていること自体だって、異常なんだよ。ジーンは困ったように言った。
「……わかってるのなら、とっとと逝くべきところに逝ってしまえ」
「酷いなぁ。仮にもお兄ちゃんに言うべき言葉じゃないよねぇ」
ジーンの口調にふてぶてしい弟を諌めるような響きは、ない。
「大丈夫だよ。然るべき時に、僕は逝くつもりです」
逝けたらの話だけど、とジーンは付け加える。
「その然るべき時、とやらが、いつなのかが気になるんだが」
「麻衣がちゃんと幸せになれたとき、かな?」
ジーンの何か含んだ物言い。双子という特性故か、はたまた彼らだからこそなのか、ナルの言いたいことはだいたいにしてジーンに伝わり、ジーンの言いたいこともまたナルに伝わるものなのだが、今回珍しく兄の意図するところを掴み損ねたナルはその美貌を苛立たしげに歪ませた。言いたいことははっきり言えと文句を言うのは簡単だが、こういうときのジーンはまず素直にナルの要求には従わない。
ナルが諦めたように嘆息を漏らすと、ジーンはひどく満足げに笑った。それが一層、ナルには気にくわなかった。
「まあ兎に角だね。麻衣を頼んだよ、ナル。あの子の幸せのために」
なんで僕が。
ナルが文句を言うよりも早く、一足先にジーンは「疲れちゃったから、もう寝るね」という言葉を残して、双子の通信を一方的に遮断した。
相変わらず逃げ足の速いヤツめ。
鏡の前に残されたナルは、鏡に凭れ掛かったまま嘆息を漏らした。体温を奪った鏡は中途半端な熱を持っていて、決して心地よいものではなかったが、倦怠感の拭えない身体を動かそうという気にもならなかった。
鏡越しに自分の顔を見やる。疲れた顔。やつれたと言ってもいい。心配性にして厳重な監視人の下で、食料も睡眠も充分に取っている筈なのに何故だろうか。摂取した食料が栄養として身体に正常に吸収されていないのか、時間にすれば充分なはずの睡眠が浅過ぎるのか。おそらくは両方が原因だ。精神的ストレスだろうか。ナルは自己を分析する。精神的ストレスがこのやつれた顔の原因だというのなら、いったい自分は何を持ってストレスを感じているのか。それが、解せない。解せないことが、さらにナルにストレスとなって降りかかる。
悪循環だな。
ナルが自嘲気味に口端をあげた丁度そのとき、インターホンが鳴った。緩慢な動きで時計を見やる。そろそろ夕飯時かという時間帯だった。大方、リンに派遣されてきた麻衣が、食料を買い込んでやってきたのだろう。
太陽のように笑う麻衣を想像して、ナルは微かに口元を緩める。おそらくは、彼自身も気づいていない、微かな表情の変化。
そしてナルはのろのろと身体を起こし、玄関に足を向けた。
20060703脱稿/20060715掲載
18,18,08