琥珀色の液体が注がれたティーカップを受け取るナルの表情が心なしか硬いことに気づいていた麻衣ではあったけれど、そこを敢えて無視したのは、麻衣のなかで昨日のナルの横柄な態度に対するわだかまりが少なからず残っていたからだ。
正直、今日はアルバイトを休んでしまいたかった。それくらいに麻衣は怒っていたし、同時に悔しくて、悲しくもあった。かといって休んでしまうのも、ナルに敗北を宣言したことにも等しいような気がしたので、麻衣は重い身体を引きずるようにして道玄坂を登り、この事務所にやってきた。案の定、ナルのすかした顔を目にした瞬間、麻衣の腹のなかの怒りはふたたび沸点に到達しそうになったものの、麻衣は仕事をボイコットするなんてこともなく、ナルに指示されるままに紅茶を美味しく淹れ、アルバイトとしてやるべき仕事はきっちりとこなしてやった。文句なんて言わせてやるものか、と麻衣は意地になっていた。事実、今日の麻衣の仕事ぶりはいつになく完璧で、ナルが嫌味のたった一言も言う隙もなかった。それは予想外の快感だった。ナルを黙らせたという優越感に麻衣は、給湯室の影でひとしれずガッツポーズをかましたりもした。
やがて、時計の針が終業の時間に近づけば近づくほど、麻衣は上機嫌になり、一方ナルの眉間には一本、また一本と皺が刻み込まれていった。
(麻衣ちゃんをなめるんじゃないよ、ナル!)
ソファに座り、紅茶に口をつけるナルは、むっつりと俯いたままだ。そんなナルを上から見下ろし、麻衣はにやっと笑った。
「麻衣」
「なんでしょうか?」
「……」
ささっと笑みを引っ込めて、麻衣は勤めて畏まった顔を作る。麻衣を見上げるナルの顔が苦々しげに歪んだ。
「なに? 用がないなら、あたしは仕事に戻るけど?」
「…………た」
「はい?」
蚊の鳴くような声に麻衣が首を傾げれば、ナルは鋭く麻衣を睨み上げた。
いやいや、待て待て。ナルに睨まれた麻衣は、不快感も顕に、口をへの字に曲げる。聞き取れないくらいに小さな声で喋ったのは、ナルのほうじゃんか。ナルの声が小さいのがいけなかったのに、そこでなんであたしが睨まれなきゃいけないわけ?
「なんなのよ」
鼻息も荒く怒る麻衣を前にして、ナルはやがて観念したように肩を落とし、今度は麻衣がはっきりと聞き取れるほどの声量で言った。
「昨日は悪かった」
「はいぃ?」
麻衣は素っ頓狂な声をあげて、ナルの顔をまじまじを見つめた。ナルは一層不機嫌そうに麻衣を睨みつけてくる。
ふだん滅多に謝罪の言葉なんぞ口にしない男の、ごめんなさい、は正直予想外に強烈だった。麻衣はあんぐりと口をあけた。やがて、腹のなかの怒りが急速に萎んでゆくのがわかった。たった一言の謝罪で怒りを忘れてしまうだなんて、我ながらなんとお安いことか、と麻衣は思う。
へにゃへにゃと緩む頬の筋肉を戒めることも出来ずに、麻衣は言った。
「ううん。こちらこそごめんね、ナル。あたしもけっこう感情的になっちゃったからさ」
「そうだな。日本猿みたいに顔を高揚させてカッカしていたな」
珍しく殊勝な態度をとったと思ったら、すぐこれだ。いかにもナルらしい歯に衣着せぬ物言いに、麻衣は喉の奥に言葉を詰まらせた。昨日の自分の取り乱しようを思い出して、あまりの恥ずかしさに顔がみるみるうちに赤く染まってゆくのを自覚しながら、麻衣は苦し紛れの反撃とばかりにナルを睨みつけた。もちろん、睨んだくらいで、ナルにダメージのひとつも与えられないことは承知のうえではあったけれど。
「そそそそこは 『そんなことないよ、麻衣ちゃん』 など、お世辞でも良いからやさしい言葉をかけてさしあげるべきところだと思いますよ。渋谷さん……」
「お世辞を考える時間があるほど僕は暇人でも、やさしくもございませんので」
「嫌味を考える時間はあるんかい!」
むきーと怒る麻衣に対し、ナルはどこまでいっても斜に構え続ける。
じゃあ言うべきことは言い終えた。さあ仕事です。――と言わんばかりにそそくさと所長室に入っていこうとするナルの腕を、麻衣はさせてなるものかと掴んだ。
鬱陶しそうに顔をしかめるナルにめげずに、麻衣は言った。これだけは言いたいと思うことがあった。
「あのね、ナル、昨日はマッドサイエンティストだの鬼畜だの人でなしだの言ってごめんね。でもね、あたしもね、秋吉さん……じゃない、えっと大岸さんとお別れをしたかったんだよ。なのに、ナルってば、人に何も言わないで勝手にひとりでお別れしちゃうんだもの」
「……」
「あたしもバイバイくらいは言いたかったよ。大岸さんがちゃんと自分から成仏できたっていうのなら、それでいいの。全然構わない。でも、あたしはきちんとサヨナラをしたかったよ」
何も言わないナルの顔を覗き込んで、麻衣は続けた。
「――ねえ、これって我儘なのかな?」
「……」
我儘といえば我儘だ、とナルは思った。麻衣の言うことは所詮生きている者のエゴにすぎない。しかし一方で、彼女が心の底から依頼者の幸せを願っていたことも、ナルはよく知っていた。
「お前は……」
ナルは喘ぐように息をついて、そして口を噤んだ。
「ナル?」
お前は――もしあの場にいたらきっと泣いていただろう?
ナルはそう思うのだけれど、それを言葉にすることは、何故か躊躇われた。
口を噤んだまま、眉間に皺を寄せているナルをしばらくの間見上げていた麻衣は、一向に口を開こうとしないナルに根負けしたのか、ふっと口元を歪めた。とってつけたかのようなぎこちない笑みだった。
「つかさー、ナルが自分から謝るなんて、明日は嵐かな。いやいや、一時間後には嵐になってるかもね」
麻衣の口はぽんぽんと軽口をたたきだす。
「……おい」
低温なナルの声を遮って、麻衣はナルに言った。
「もしかしてさ、ジーンに怒られたりした?」
それが、あまりにも軽やかな調子のままの声だったので、面食らったのはナルのほうだった。
あの夏の日以来、今日まで断固として彼の少年の名前を口にしようとしてこなかった麻衣が、まさかこんなタイミングでその名前を出してくるとは。衝撃と驚きのあまり意図せず表情をなくしたナルに、麻衣の顔も自然と強張る。
一方、麻衣からすれば、それは少しふざけただけにすぎなかった。いつもナルと交し合う軽口の応酬の延長線上にあるような、そんな感覚だった。――否、正直に言えば、おふざけと軽口を装った性質の悪い探りでもあった。ジーンがまだこの世界にとどまっているのではないのかという浅ましい期待から派生した言動だ。尤も、麻衣にしても今回の一件にまさか本当にジーンが絡んでいたとは夢にも思わなかったのだ。そして、ジーンの名前を出した途端に、ナルがあんな無防備な表情を見せるとも思わなかった。
ぎこちない沈黙に、先に終止符をうったのは麻衣だった。
「……そっか」
ナルは尚も言葉を失くしたままだった。俯いた麻衣の顔は、ナルの頭の位置からは見えない。ただ栗色の前髪の合間から覗く口元が微かに震えている様子が見て取れた。泣いているのか。反射的にぴくりと動いたナルの指先に、麻衣はおろか、ナル本人すら気づかなかった。
「ジーンは……」
彼の人の名前を唇に乗せながら、麻衣が顔をあげる。彼女は、笑顔だった。満面の笑顔だった。泣いてなどいなかった。
「ジーンは元気だった?」
「……元気も何も、あいつは死んでる」
一拍置いて、あは!と麻衣は笑い声をたて、そうだよね!と頷いた。死んじゃってるんだもんね、風邪なんてひくわけないか。麻衣はまるで自分に言い聞かせるかのように言って、自らの言葉に頷いてみせる。
明らかなナルの失言だった。麻衣をこれ以上ないとわかる最悪の形で傷つけた。そうとわかるのに、ナルは何も言えないままだった。
片づけしなきゃ。――そう言って給湯室に駆け込んでいった麻衣を、ナルは追いかけなかった。追いかけようとも思わなかった。ただ足が床のタイルに張り付いたまま離れなかった。
重い頭をふらふらとあげて、何気なしに、窓を見やる。窓によく見知った顔が映りこんでいた。
鉛のような腕を徐に伸ばして、指先で硝子に触れる。途端に繋がれたチャンネルの向こうで、双子の兄が静かに佇んでいた。
疲労を隠せないでいる弟に、しかし兄は冷ややかだった。
「ナル」
冷たい、体温を持たない指がナルの首筋に触れる。
「僕はね、今、生まれてはじめて君に殺意というものを抱いたよ」
一本一本とナルの首筋に絡みつくジーンの指に力が込められたその瞬間、ナルは硝子から指先を離していた。
知らず上がっていた息を整える。
慰めなど期待していたわけではない。そんなものを得ようと硝子に触れ、兄にコンタクトをとったわけではない。だけど――。
兄の冷たい双眸を思い起こしながら、ナルは首筋に触れる。先ほど首筋に感じたジーンの指先の冷たさは、硝子の温度だった。
20070310脱稿/20070603掲載
18,18,08