あの夏。ジーンとて、少女の涙の慟哭に心揺さぶられなかったわけでは決してないのだ。ジーンの魂を揺さぶるのはいつだって、何よりも代え難き己が半身の硬質なテノールだけであったというのに。
 類まれなる容姿と、常人有らざる特殊能力、そして複雑な生い立ち。特異な双子を取り囲む眼差しは、昔から往々にして好まざるものが多かった。奇異、同情、羨望。双子の弟たるナルはそれらに対して一切無関心であり、兄のジーンとでそれらを煩わしいと思いこそすれ、甘んじて受け入れようとは到底思えなかった。
 他者に対して閉鎖的だったのは、何もナルだけではない。ジーンとて決して他者に対して寛容だったわけではないのだ。
 ただ、ナルが他者へ扉を閉ざし、学問にのめり込んでいった一方で、ジーンは対人関係を円滑にするにあたっての必要最低限の術を心得ていっただけの話だ。

「今となっては、僕は本当に後悔してるよ」
 兄がため息交じりに呟くと、弟はその柳眉を寄せた。
「何が」
「君のそういう情緒未発達なところ」
 褒められているわけではないことは、ナルにだってわかる。かと言って、オリヴァー=デイヴィスという人格を形成するに当たって、はたして“情緒”というものが必要かどうかと考えると、それは間違いなく廃棄物行きのものだ。ナルにとっては少しの価値も見出せない“情緒”というものの欠如を今更指摘されたからと言って、ナルには痛くも痒くもない。まったくもって頓着しない。
 むしろナルの気に障るのは、ナルのそういった性質を 「自分のせいだ」 と言わんばかりに嘆くジーンだ。
「何故、お前が後悔するんだ」
 ところでいったい、何だってこんな会話になったんだろうか、とナルは考える。
 いつもの如く鏡越しに調査の話をしていて……、ああ、そうだ。麻衣は元気かと例によって例の如く尋ねてきたジーンに、調査の後に大喧嘩をしたことを報告したのだ。事の顛末を話し終えたところで、ジーンが突然 「後悔している」 などとのたまいだしたのだった。
「あぁーあ、麻衣もこんな不出来な弟の相手をさせられてさぞかし苦労しているだろうね。せめてものお礼に今夜は素敵な夢でも見せてあげようかなぁ」
「ジーン」
 得てして、美人の凄みほど迫力あるものはないけれど、同じ顔が相手であるときに限っては、ナルの絶対零度の表情は通用しない。
 ジーンはさらりとナルの鋭い視線を流して言った。
「ナル。君の言うことは正しいようでいて、実は見当外れなんだよ」
 いいかい、ナル。ジーンは自分より大人びた弟を諭すように言った。
「人と係わることから学問に逃げた君にはわからないんだろうけどね、君の理路整然とした主張に決定的に欠けているものがある。人間には感情というものがあるんだよ。人間は人間である限りどうしたって、感情と切り離せることなんて出来ない。感情ばかりが走って病的になって当然、病的になって普通な状況だってあるってことだよ。麻衣はそれを言いたかったんだ。異常だと君が決め付けたことは、うん、確かに異常なのかもしれない。だけど君の見解には、尽く感情ってものが欠落してる。人は理性だけでは動けない。だから、麻衣は怒った。そういうことだ」
 押し黙った弟に、果たして己の言葉が通じたのか。通じていて欲しいとジーンは心の底から願うのだ。
「麻衣に言わせれれば、こうだろうね。『あんたなんかに、人間云々を語られたくはない』」
「人を人間じゃないみたいに言うな」
 むっと眉根を寄せるナルに、ジーンは殊更穏やかな調子で言った。
「人の痛みや感情に鈍感なのは、よくないよ」
 ナルは痛みを知らぬ人間では決してないけれど。
「麻衣が過敏なだけだ」
「共鳴しやすいんだよ。そして相手が誰であろうとも心の底から労わってやれる。つくづくやさしい子だよね」
 ナルは呻く。
「それで? 何でお前が後悔とやらをするんだ」
 ジーンは答えず、ただ笑うに留まった。

 今は遠い幼かったあの頃。ジーンは研究にとり憑かれている弟の傍にただいるだけでよかった。時たま弟にちょっかいを出して、煙たがられながらも、心の底から拒絶されることはなかった。ナルに拒絶されることなどないのだと、ジーンは知っていたのだ。
 ジーンと、ナル。二人の世界に、他者はいらなかった。二人の根本にあった感情は一緒だ。他者なんぞいらない。例外は少なく、その少ない例外ですら、二人は拒絶することもあった。
 とは言え、双子だけの世界に浸っていることを、自分達を取り巻く環境が許してくれないことをジーンは心得ていた。ジーンは、閉じ篭もった弟を気にかけつつも、外へと目を向ける術を見に付けていった。そのなかでジーンが、得たものは少なくない。ジーンはそれでよかった。だけど、ナルはどうだ。閉じ篭りっぱなしだったナルは感情というものにひどく愚鈍になった。自分の気持ちにさえ疎い始末だ。生まれ持ったサイコメトリという特殊能力故に、ナルは感情を識らぬわけではなかったけれど、決してその感覚が研ぎ澄まされることはなかったのだ。
 兄弟も他人の始まりというけれど、特殊すぎる双子はお互いを“他者”というカテゴリーに嵌め込むには、些か近すぎる存在だった。
 例えば、ジーンが生きていたのなら。或いは、そのままの状態で良しとしていたかもしれない。誰にも邪魔されない双子の楽園は、しかし、片方の死によって木っ端微塵に砕け散り、両者の関係は断絶された。そして残骸のなかでそれぞれ呆然と立ち竦んでいた双子は突如として天真爛漫なあの子に出会った。
 笑顔の絶えない少女はその涙の慟哭によって、死者たるジーンさえ揺さぶった。ならばあの少女からの生者たるナルへの影響は幾ばかりのものかと、ジーンは想像する。
 微かにナルのなかで生まれつつある感情の正体を、ジーンは知っている。痛みさえ伴うその感情に、痛みに鈍感なナルはまだ気づかない。
 いつか気づけばいい。気づいて欲しい。兄に諭されるのではなく、自分自身で気づいて、掴みとって欲しい。掴み取ったその感情を大切に暖めて欲しい。
 そして、その想いを、あの子が受け入れてくれればいい。

「とりあえずね、ナル」
 不満ですと言わんばかりに不機嫌な弟に、兄は笑顔を浮かべて言った。
「麻衣にはちゃんと謝っておこうね」





20060704脱稿/20060716掲載/20060811加筆修正


18,18,08