季節は夏。既に梅雨明け宣言がなされている東京は、連日の真夏日と熱帯夜で蝕まれている。
 暑さが幾分か和らいだ午後四時過ぎ、ナルは都内の比較的大きな公園にいた。人気のない木陰のベンチに腰掛け、ナルは人をじっと待つ。
 膝の上で握っていた掌の内は汗でぐっしょり湿っていて、その不快感にそっと眉をひそめた。汗をかきにくい体質なのに珍しいこともある、と他人事のように自分を分析する。もしかして、自分は今緊張しているのだろうか?
(この僕が?)
 まさかありえない、と一蹴する。

「こんにちは、渋谷さん」
 面を上げると、ナルの座るベンチから三歩ほど離れたところに、落ち着いた物腰の男が立っていた。ふんわりと、まるで誰かを髣髴とさせるかのような笑顔を湛えるその男。
 ナルは平素の無表情はそのままに、じっと観察するように目の前の男を見つめた。男はナルの不躾な視線に気づいているのか、気づいていないのか、燦々と輝く太陽をゆったりと見上げて、呟くように言った。
「いい天気ですねぇ」
 ふたたびナルに視線を戻した男は、やはり笑顔だった。

 好きだったの。―――涙を流す少女をナルは思い出す。
 笑顔が綺麗だったのだ、と少女は言った。
 闌夜にまぎれて震える華奢な肩を思い出す。あれから一年が経った。
 好きだったの。―――震えるソプラノが綺麗な波紋を描いて、澄んだ夜気に溶けて消えていった、あの夜。人より優れたナルの脳は、一年という歳月を経ても尚、あの光景を鮮明に蘇らせる。それはナル本人が望むとも望まぬともに拘らず、彼の意識の表面に浮上しては、彼の心に波風立たせ、そしてまた消えてゆくのだ。


 呼吸をひとつ。掌の汗の感触を意識の外にたたき出して、ナルは口を開いた。
「秋吉さん。結論から申し上げましょう」
 ナルの声は冴え冴えと響いた。
 死んだ恋人に囚われている友人を助けてやって欲しい。そんな依頼が来たのは、一週間ほど前のことだ。秋吉浩太(あきよし こうた)と名乗った今回の依頼人は、二十代そこそこの男だった。依頼の内容はナルからすれば陳腐なもので、しかし、一も二もなく断ろうとしたナルを強引に引き止め、結局依頼を引き受けさせたのは、何を隠そう麻衣だった。
 秋吉がいう助けてほしい友人というのは、千尋という女性だった。
 千尋は、秋吉を見ない。ナルたちのことも見ない。ただここではないどこか遠くを人形のような瞳で見つめ、死んだという恋人の名前を呼び続ける。死んだ恋人の名前は、大岸豊(おおきし ゆたか)と言った。
 亡くした恋人の名前を呼んでは、ときに癇癪をおこしたように泣きじゃくる千尋にじっと寄り添っていた麻衣の姿を、ナルは思い出す。麻衣のあの様子は、そう――感情移入なんていう生易しいものではなく。
 いっそ麻衣も大声を張り上げて泣きもしてくれれば、ナルにもひとつやふたつ、手の施しようはあっただろう。煩いとでも、泣くなとでも言い捨てることも出来ただろう。
 にもかかわらず、涙をひた隠して無理に笑顔でいようとする麻衣に、ナルのなかでのフラストレーションは溜まる一方だった。もはや麻衣が誰を想い、何を思い出しているのかは、ナル以外の人間にもわかりきっていたことであったのに、麻衣だけが頑なにそれを悟られまいと足掻いていた。
 あの夏。ナルは涙を流す彼女に手をさしださなかった。そして、この夏、涙を流さずに泣く麻衣に、ナルはやはり手を伸ばせなかった。

「残念ながらと言うべきか、幸いと言うべきか、僕には判断はつきかねますが。やはり千尋さんは、大岸さんに囚われているわけではありません。彼女はただ自分のうちに篭っているにすぎません。現実逃避という表現が一番よく当てはまるかもしれない。何れにせよ、彼女のあの状態は誰かにとり憑かれているわけではない」
 抑揚に欠いたテノールは、自らの調査結果を依頼主に淡々と告げる。一方、依頼主のほうもこれといって取り乱した様子はなく、穏やかな雰囲気はそのままに、ナルの声に静かに聞き入っていた。
「彼女は入院する必要がありますか」
「さあ。そのあたりのことは僕からは何とも。専門外なもので。専門家に見てもらう必要はあると思いますが」
「彼女は助かるでしょうか」
「それは彼女次第でしょう。或いは医師の腕次第か。どちらにせよ然るべきところに行き、診て貰うのがやはり先決かと思います」
「僕にはどうすることもできない?」
「するべきではないと言ったほうがいいかもしれません」
 ナルは一旦言葉を切って、男の瞳を真正面から見つめた。一見穏やかに見えるその瞳の奥に、あるべき光がない。どうして気づけなかったのか、とナルは己の迂闊さを罵った。こういう瞳を、ナルは知っている。未来を映すことのない瞳。それはいかなる生者にもありえない瞳だ。
「あなたがいかに千尋さんのことを想おうとも、いかに千尋さんを大切にしようとも、あなたはもう千尋さんに関わるべきではないんですよ、秋吉さん――いえ、大岸さん」
 夏の匂いを含んだ風が、緑の公園を吹きぬける。
 大岸と呼ばれた男は動揺した姿など微塵も面に出さずに、静かな静かな瞳でナルを見下ろした。その静寂に包まれた雰囲気こそが、ナルの疑いを確信へと変えてゆく。
「大岸豊さん、ですね?」 今一度、ナルは問うた。
 男は穏やかに笑うに留まったが、こたえがそれで十分だった。
「アナグラムですね」
 大岸豊と、秋吉浩太をそれぞれローマ字で分解し、さらに文字を入れ替えると、OOKISI YUTAKA は AKIYOSI KOUTAになる。簡単なアナグラムだった。
「随分と人間くさいにおいだったものですから、全く気づきませんでしたよ」
 嘆息交じりにナルは言った。
 千尋にはじめて引き会わされたときから、今回の依頼が自分の専門に関係ないものであることはナルはほぼ直感的に確信していた。ところが、調査をしてみればどうしてかそこに霊的な異状があることを機材たちが知らせてくれる。散々ナルを悩ませた原因は、一度わかってしまえば、実に簡単なことだった。灯台下暗しとはよくいったもので、人あらざるものはナルたちの直ぐ隣にいたのだ。
「……こっちの生活が長いもので」
「あなたには逝くべきところがあるはずです」
 容赦ないナルの物言いに、男は苦笑いした。
「ええ、知っています。知っていて、逝かなかった。逝けなかった」
 或いは、囚われていたのは、彼女ではなく俺のほうだったのかもしれません、と男は言う。
「本当を言うとね、俺たちまだ恋人同士ではなかったんですよ。未満って感じかなぁ。お互いにお互いの気持ちはなんとなくわかってたんですけどね」
 きちんと想いを告げる前に、死んでしまったのだ、と。半年ほど前、飛行機の事故で命を落としたのだ、と男は広い蒼穹を見上げながら言った。
 そういえばそんな事故があったかな、とナルは記憶の糸を手繰り寄せてみた。規模にすれば大きな事故だったかもしれないが、ナルにはこれといって印象のある事故ではなかった。
「もう一度……ほんの一度きりでいいから、千尋に俺を見て欲しかったなぁ」
 それは、独り言のように小さな呟きだった。
 大切だったんだよなぁ、と。好きだと伝えたかったなぁ、と。
 想いは確かに、ここに存在しているのに。でも彼女の瞳に、自分は映らない。どんなに叫んでも声は届かない。触れることは適わず、伝える体温すら死したこの身は持ち得ない。
 ナルは視線を足元に落とした。

「秋吉さんはさ、きっとさ、千尋さんことが好きなのよね」
 ぽつり、と言ったのは麻衣だった。
「見てればわかるもの。大好きなんだね」
 あれは、秋吉を名乗る大岸と共に千尋に会いに行った、その帰り道で、麻衣がナルに言った言葉だった。
「ちゃんとこれが解決してさ、そしたら、秋吉さんと千尋さんはうまくいくかなぁ。いくといいなぁ」

 ――ねぇ、そう思わない、ナル?

「さて、大岸さん。どうしますか」
「どうしましょうかね。俺がここに残りたいと言ったら、どうします?」
「お薦めしませんね」
 ナルは即答した。
「お手伝いしましょうか。仕事柄、その手のプロの知り合いはいます。信用もできます」
「いえ、結構ですよ。自分で逝けます」
 肩をすくめて、男は言った。
「ただ、少しお願いが。聞いていただけます?」
「依頼人のご要望に出来る限り沿うよう努めることが、我々の仕事です」
 口だけが機械的に動く美貌に、男は苦笑いする。
 能面のように表情のないナルとよく並んでいたのは、彼とは正反対をゆくような少女だった。天真爛漫をそのまま絵に描いたような子だった。やさしい子だった。ただ、千尋だけでなく自分にまで親身になってくれたあの子を騙すような形になってしまったことが、心残りだ。
「千尋を頼みます」
「ご家族にはすみやかにご連絡差し上げて、事情はご説明させていただきます」
「充分です」
 後それから、と大岸は言った。
「麻衣ちゃんに謝っておいてもらえます? 正体を誤魔化しててごめんね、って」
 この期に及んで微笑む男に、ナルはかすかなデジャヴを覚える。気のせいだ、とすぐに一蹴したけれど。
「……伝えておきましょう」 一呼吸置いて、ナルは答えた。

 刹那、一陣の風が吹き抜けていった。
 そこに、気配はもうない。
 遠く、公園ではしゃぎ回る子どもたちの声がする。終始膝の上で握りっぱなしだった掌を離してみる。ナルは瞼を落とし、嘆息を溢した。

 ――ねぇ、ナル。秋吉さんも、千尋さんも、幸せになれるといいね。

 季節は夏。足元を覆う木陰だけが広くなっていた。



20060703脱稿/20060726掲載

18,18,08