開いた扉の内側から、少年の苦しそうな声が廊下にまで響いていた。心配そうになかを覗き込んでくる養父母に、ナルは嘆息交じりに首を振ってみせる。そんなナルの隣では、ナルとそっくりな少年――ジーンが、便器に頭を突っ込んで呻いていた。忌々しき事態だ。養母が用意してくれた水の注がれたコップを、ナルは受け取る。
「だいじょうぶ。あとは僕が見ておくから、ふたりはテレビの続きでも見てて」
 おとなびた声にそう言われて、それでも心配そうなルエラの肩を、マーティンが階下のリビングへと促す。曰く、トイレに三人も四人も入れないだろう? と。本来はひとりで使うべきトイレには、ナルとジーンが入るだけで既にぎゅうぎゅう詰めの状態だ。
「ルエラ。ここはナルに任せておこう」
 不承不承といった様子のルエラの肩を階段のほうに向かわてくれたマーティンに、ナルはこそりと安堵の嘆息をこぼす。と、養父の茶目っ気たっぷりなウィンク攻撃を喰らい、ナルは思わず苦笑した。まったく、あの養父にはつくづく敵わない。

 さて、と養母からの差し入れのコップを、邪魔にならないところに置いて、ナルはぜいぜいと荒い息を繰り返す兄の背中を擦ってやった。
 もうかれこれどれくらいこうしているだろう。ナルは溜息を禁じえない。
「気持ち悪いよ、ナル」
「失礼な奴だな」 ナルは言った。 「人の唇を奪っておいて、なんでお前がトイレに駆け込んで、しかも僕がお前の介抱をしてやらなきゃならないんだ」
「気持ち悪いよぉ……」
「……」

 いつもより遅い帰宅だった双子の兄は読書中の弟の部屋に無断に飛び込み、弟に抗議させるだけの間も与えずに、弟の胸倉を掴んで、己の唇で弟のそれを塞いだのだった。何事かと目を瞠る弟に構わず、兄はもう一心不乱といった様子で、弟の口内を貪ってきた。さすがの弟もそんな状況に俄かにはついてゆけず、そうこうしているうちに兄の唇は離れ、呆然としている弟を残して、兄は弟の部屋を飛び出していったのだ。
 ただならぬ兄の様子に慌てて追いかけてきてみれば、兄はトイレの便器に頭を突っ込んで、この有様だ。げろげろ、げろげろ。
 養父母に心配はかけるし、読書は妨げられるし、ファーストキスは奪われるし、ナルとしては納得のいかないこと尽くしだ。

「ナル……もう一回キスしてもいい?」
「ゲロくさいキスなんてお断り」
「そういう問題?」 うはは、とジーンが息苦しそうに笑う。 「じゃあ、歯ぁ磨くよ」
「……大丈夫か、お前」
 眉間に皺を寄せる弟を、ジーンは抱き寄せて、その肩口に額を押し付けた。
「気持ち悪いよ、ナル。気持ち悪い。吐きたい」
「吐いちまえ」
 もう出ない、とジーンは言った。あとは胃液しか出てこない。とりあえず口を濯げと言われて、言われる通りにする。ルエラの寄越してくれた水は、よく冷えていた。
「ナル、キスしようよ、しよう、ねえ」
「それでまた吐くのか」
「違う。違うよ、ナル」
 ぎゅうと抱きついてくる兄の頭を撫でてやれば、微かにナルの鼻腔を人口的な香りが擽った。甘ったるいそれは、きっと女物の香水だった。嗚呼、とやっとナルは納得がいった。
「セックスなんていいものじゃないね。皆が言うほどいいものじゃなかったよ」
「最低だな、お前」
「ねえ、ナル、キスしようよ」
 無言のままジーンの背中を擦り続けるナルに、ジーンは青白い顔でこそりと笑う。イヤ? と重ねて尋ねても、ナルはやはり無言だ。
 厭じゃない。兄弟だとか、男同士だとか、そういう次元の話はこの特異な双子には通じない。厭なんかじゃない。
 それが問題なのだ、きっと。


SHIMAKO ITO 20070915