たったそれだけ。この世に生を受けて、今現在も呼吸をし体内にエネルギーを蓄え生命活動を維持し続けていることを毎日僕は後悔している。仕事と言っても一般の人間が是として受け入れる類のものではなくて、限られた狭い範囲でしか活用されない知識をただ闇雲に増やしているに過ぎないのだと、今日は三度ほど考えた。これがどう生かされると言うのだ?自分自身、僕にしか使えないものだろう?論文に書き連ねてみても現実味を帯びやしない。生まれたことを後悔している。生きていることを後悔している。何故?
自分しか残っていないからだろう。

「Happy Birthday Noll!」
そっと瞳を上げてあたりを伺えば、とうに見飽きた自分の顔が硝子の中で無表情に手を振っていた。ご丁寧に僕と同じ洋服を身に着けて、僕のまねをしているとでも言うのか、眉間に浅い皺を寄せて唇をぎゅっと閉じてだけを左右に揺らしている。何をしているんだと呆れも露に問いかけると明るい声で「お誕生日だよ」と一言笑うだけだった。
「その顔はやめろ」
「ナルと同じ顔だよ」
「心外だ」
くすくすと笑いかつてのように掌を合わせる。毛細血管が指の先まで通り、とくとくとうっすら脈拍を伝えてくる自分の手と重なる無機質な硝子に映った不健康な色。夜の闇を背景に透明がかった肌色の手を持つもう一人の自分は、一瞬だけ悲しそうに目を瞬かせ再び僕の記憶の中と同じ笑顔で「おめでとう」と言った。
掌の向こうに夜の明かりが見える。覆い隠すかのようにもう片方の掌も合わせるように促すと、とても泣きそうな顔で笑うのだ。
「ねえ、おぼえてる?」
「ああ」
悲しいねと口には出さず、当たり前のように存在していた僕たちだけの糸にそっと思いを流し込む。
寂しいね
悲しいね
会いたかったよ
ぷつりと途切れたまま放置されていた互いの糸の先が再び結ばれることを強く願って。
「ジーン」
口にしたくて、呼びたくてたまらなかったもう一人の自分。呼んでも返ってこない返事を恐れて、悲しみに脅かされる自分を甘やかして大切に秘めていた名を恐る恐る空気に乗せる。
「ナル」
重ね合わせた指先がわずかに動く。

額に口付けを一つ。頬に一つ。もう一方の頬に一つ。
僕たちが時間を重ね合わせる度に、二人だけで行われてきたひそやかな儀式。互いを確認するため、自分を確認するため、そして僕たちが一つになるために。
こつりと額を寄せて生まれてきたことを確認する。よかったのだろうか、悪かったのだろうか。幼いあの日の僕らはついに僕たちの意味を知ることはなかったけれど、それでも自分たちだけでも確かめたかった。もって生まれた生を。乾いた硝子に唇の熱が奪われ、徐々に冷たさを増していく。僕の持っているこの熱が冷たい片割れを少しでも暖めることができればいいのにと考える。寄せた額は硬い一枚の板に阻まれているけれど、何度も触れ合わせた暖かで柔らかい彼の皮膚を記憶の中で思い出す。指先を絡め合わせて手を繋ぐことができたらいいのにと願う。

「また一つ大きくなったね僕ら」
「ズボンの裾を直すためにルエラが張り切るか?」
「足が伸びてくれれば良いんだけどね」
今日だけは、目を逸らしてもいいだろう。思い出を懐かしむことを、過去を振り返ることをお互いに許しあおう。
「今日で僕たち成人だよ」
こんなにも時間は早く流れ去ってしまうのだから。


CHIHIRO SAITO 20070913