竜は羽撃く
昼間だというのに、社のなかは薄暗かった。
獣人族のアドムの里のなかほどにあるこの社は、祭事などに使用され、なかは大の大人が30人入っても余裕のある広さがあるというのに、今、社のなかにいるのはたった四人だけであった。白髪の目立つ里の巫女、年老いた村長(むらおさ)、彼の里子である年若い娘、黒髪の端正な顔立ちをした少年。少年だけが、獣人族ではなく人間の形(なり)をしていた。
隅に置かれた灯篭の仄かな灯りが微かな気流に乗って揺れると、四人の影もゆらゆらと儚げに舞う。
四人は、板の間の中央に敷かれた縦一尺、横二尺程の大きさの生成りの布を囲うようにして、それぞれ円座の上に座っていた。布には獣人族に古から伝わるという文字や文様が記されていたが、四人の中で一番の若輩である娘にはそれが何を意味しているのかはさっぱりわからなかった。きっと、村一の知識人である村長ですらそのすべてが理解できているわけではあるまい。もちろん、獣人族でない少年にもわかるはずもない。年老いた巫女だけが、それを知っている。それこそが巫女の証なのだ。
巫女は口のなかで呪文のようなものを唱えると、皮の袋から取り出した石を数個、掌のうえで捏ね繰り回し、そしてそれらを布の上に放った。胡桃だいの色とりどりの石はころころと転がり、なにかに導かれるようにてきとうなところで静止する。四人は石の動きをじっと見つめていた。
「竜を求めて風が吹く」 巫女のかすれた声が、社のなかに響いた。 「竜の森の風だ。今はまだ荒れ果てた森の……」
「バァン様のもとに?」 巫女に尋ねたのは娘、メルルだった。
「左様」 巫女は頷く。 「今夜、西の森を通って、風がやってくる。ひとりか、ふたりか、それは妾にもわからぬ」
緊迫した沈黙が薄暗い社を支配する。メルルは巫女の詞に震え、村長は静かに彼女の肩を抱き、少年は瞑目していた。
巫女は袋からまた新しく石をひとつ取り出すと、それを放った。今度は紅い石だった。石は布の上には留まらず、外に転がり落ち、そして少年の円座の前で止まった。
「バァン=ファーネル。おまえはこのような山奥に留まっていられるような者はあるまい。そしてまわりもそれを許さぬ。許せぬ」 巫女はそう言って、黙ったままの少年、バァンを見た。彼は紅い石をじっと見つめたまま微動だにしない。
「バァン様は……!」 たまらずメルルは叫ぶ。 「せっかく、御自分のために生きようと……!」
メルルの脳裏に、あのときのバァンの顔が浮かんだ。すべての戦いが終わったら里に帰ろう、と言ってくれたときのやさしいバァンの顔が。
(やっと……やっと、バァン様が穏やかに暮らせるようになったのに!)
「竜が森に還ることと、竜が自らのために生きることは、矛盾しない」
巫女の有無を言わせない口調に、メルルは恐れをなしたように口を噤んだ。
バァンは膝のうえにおいた掌を握り締め、そっと息を吐き出した。重い息だった。
里を一望できるここは、バァンのお気に入りの場所だ。目を細めて、バァンはぐるりと景色を見渡す。傾いた日は橙色にあたりを染め上げていた。寝床に帰るのか、鳥たちが森のなかに消えていく。それはいつか見た光景だった。ただ、違うのは空には月がひとつしかなかった。蒼い幻の月が見えない。
ふと、振り返ると、村長が杖をついて立っていた。彼は目を見開くバァンをおもしろそうに見つめ、そして丸い背中をひょっこりと動かしながら、バァンの横に並んだ。
「ここまで登ってきたのは何年ぶりかのぉ」 里を見下ろしながら村長は言った。 「あなたがときたまここを訪れていることは知っています。“あれ”もそれは承知しているはずですよ。あなたに遠慮して黙っているようですが」
「……」 村長の里子であり、バァンが妹のように可愛がっているメルルを頭に浮かべて、バァンは困ったように俯いた。
「あなたはここ数ヶ月で昔のあのおやさしいバァン様にお戻りになった」 村長の口調はどこか懐かしむようなそれだった。幼い日の無邪気なバァンの姿を思い出しているのだろう。 「戦いは終わりました。あなたは自由だ。自由になったはずです。にもかかわらず……」 村長は言葉切った。
バァンは眉根を寄せて、瞼を閉じた。
「にもかかわらず、あなたは未だに縛られていらっしゃる」
「……」
「寂しそうに空を見上げていらっしゃる。あなたには翼があるというのに。まるで、この大地に両の足を絡めとられてしまっているかのようだ」 村長は空と大地とそしてバァンを見やり、そして続けた。 「アドムの里は何人も拒みませんが、無理に引き止めることもしない」
「オレは……」 バァンは口を開いたものの、胸のうちに渦巻く感情をうまく言葉にすることは適わなかった。
「それでもあなたがここに留まりたいとおっしゃるのなら、アドムの里は拒まない。が、わしにはあなたがそう望んでいるとは思えない」
「オレは、祖国を取り戻したい」
村長は満足げに頷いた。「メルルにはわしから言って聞かせましょう。あなたが真にそう望んでいるとわかれば、あれも納得しましょうから」
バァンは掌を握り締めて、言った。 「オレに勤まるでしょうか」
村長はほほ、と老人らしく笑ってみせた。 「竜の王は、あなたしかいません。あなたに勤まらなくて誰に勤まると言うのですか」
村長のその言葉に、バァンがはにかんで笑ったときだった。里の男が村長とバァンを呼びにやってきたのだ。亡国ファーネリアの使者を名乗る者が里を訪れたという。
「ほほ、巫女殿の占い通りだ」 村長は上機嫌に肩を揺らし、そしてバァンに向き直った。 「さあ。あなたを王として迎えるべく、竜の民は集まっています」
バァンは力強く頷いた。
村長と里の男のあとに続いて里に下りる途中、見上げた空はすでに星々で光り輝いていた。幻の月はあいかわらず見えない。だけど、どうしてだろう。いつか、あそこに蒼く美しい輝きがふたたび戻ってくる予感がした。いつか、また彼女に会えるだろうか。いや、会える。きっと会える。
「ひとみ……」
見えぬ蒼い星に向かって、バァンは穏やかに微笑んだ。
エスカフローネ|050629