今でも、あの騒がしい日々をふと思い起こし、そしてその度にあれは夢だったのではなかろうかと思う。
大教室の窓から覗く蒼穹の空には、雲が緊張感の欠片もなくぷかぷかと漂っていた。キャンパス内の緑地帯から聞こえてくる蝉の大合唱が、講義の邪魔をする。煩わしいことこのうえないけれど、教室の空調が壊れているというのだから仕方ない。
ときおり白いカーテンを揺らして教室内に申し訳程度に入ってくる風はとても涼しいとは言いがたくて、学生の勉強への意欲を損なわさせるには充分だった。
暑い。
頬杖をつきながら、一護は上下スライド式の大きな黒板を睨みつけた。白い文字の羅列を目で見たまま、頭を通さずに機械的に手でノートに書き写す。講師の話はほとんど耳に入ってこなかった。暑い。このまま氷が水になるように、溶けてしまうのではなかろうか。そんなことを思う。
そういえば、あの少女を追って初めて尸魂界に足を踏み入れたのも、丁度この時期だった。懐かしい。夢のようだ。
あれから、もう何年。高校の窮屈な制服から開放され、今や大学に通い、一護は何事もなかったかのようにごく普通の人間として過している。たまに、ほんのたまに死神業をボランティアみたいなものでやったりもするけれど。死神界からも、仮面軍団からも、相変わらずのスカウトがくるけれど。
それでも、一護のまわりは。人間界は、平和だ。
「おーい、一護ぉ」
「嫌だ」
終業のチャイムとともにびょんびょん飛びついてきた友人たちを蹴り飛ばして、一護は言った。暑苦しい。
「んな、殺生な……!!」
「代返してやってるってだけで感謝しろ。ノートは貸してやらん」
ふんと一護が鼻を鳴らせば、友人たちが口々に文句を言う。
「一護ちゃーん、そんなぁぁー」
「真面目に授業に出ないおまえらが悪い。だいたい最後の講義だけ出て理解しようってほうが、無茶なんだよ」
「だってさー、一護。おれら大学生よ? 遊ばなきゃやってらんないじゃないの」 ねー、と小学生のようにお互いに頷きあう男ども。悪い奴等ではないけれど、このお調子者っぷりは本当にどうしてくれよう。
「遊びたきゃ遊べ。そして、勝手に落第でも何でもしてろ」
じゃあなと踵を返そうとした一護をすかさず友人たちが止める。 「待って、待って、待ってくださーい!一護さまー!!」
一護がぎろりと睨みつければ、彼等は至極罰が悪そうに縮こまるが、それでも一護のシャツを掴む手は死んでも放さなかった。本当にしぶとい連中だ。
自然と零れる溜息。はっと期待に満ちた目で見つめてくる友人たちに、一護はしかたなくと言った風に頷いてみせた。
「制限時間は一時間。その間に移せよ。ただし、コピーは死んでも認めねー」
コピー厳禁と言われて唸る友人たちは、それでもしぶしぶと頷いた。 「なかなか厳しいんだから、一護ってば」
一冊のノートを囲んで、大きな男たちが一心不乱にそれを書き写すさまは、なんというか、傍から見ていて少し気色が悪かった。絵的にとても美しくない。
そんな美しくない彼等を横目で見ながら、一護はのんびりと紙パックのジュースを喉に流し込む。ジュースは一応、友人たちの賄賂だ。授業代返とノートの写しのみかえりだと考えれば随分と安い賄賂だが、まあいいかと一護は納得した。こうも暑い季節に冷たい飲み物は、なかなか有難かった。
「なあ、一護。この後暇?」 ふと、ノートを囲んでいたうちのひとりが言った。
「嫌だ」
「おれ何も言ってないじゃん」
わざとらしく口を尖らせてみせる彼を、一護はぎろりと睨みつける。 「どうせ、合コンだ何だとか言い出すんだろ」
「あったりー」 別の友人がにししと笑う。 「どうよ、今回はなかなか上玉がそろってるらしいぜ」
「興味ない」
と、一護がそっけなく拒否すれば、彼等は 「おまえは男じゃない」 だの 「不健康」 だの 「病院行って来い」 だのと好き放題言い出す。極めつけは、「一護ってば、もしかして“そっち”のケが……」 だ。
「キャー!一護ちゃん、ぼくちゃんたちにはそういう趣味は御座いませんからね〜」
勝手に盛り上がる彼等はひどく馬鹿そうに見えるけれど、とても楽しそうだ。
「ご期待にそえなくて悪いけどな、おれはすこぶる正常だ」
「そうなの? おまえ女の子に結構もてるのに、ぜんぜん相手にしないから絶対にそっち系だって、おれらの間じゃ定説だったのに」
「おめーらは、おれのいないところで、どんな会話してんだ」 一護は溜息交じりに呟き、そして腕時計を見た。 「おら、あと十分も残ってねーぞ。とっとと写しち……」
――まえ、という言葉は最後まで紡がれることはなく。突然、凍りついたように動かなくなった一護を、友人たちが不思議そうに見やる。 「どうしたん?」
友人たちの声など聞こえてなかった。一護はひどくぎこちない動きで首を回して、背後を振り返った。
友人たちがそんな一護の視線の先を同じように辿ってみれば、大教室の後方の入り口に誰かが立っていた。女だ。やたら細くて、やたらミニサイズな女がこちらを見てる。見ない顔だった。でも、とても可愛い、稀に見る美少女だった。
白いカーテンがたなびく。少女のワンピースもまた、教室を吹き抜ける風に煽られていた。
「うぉ、べっぴん……」 と呟いたのは、誰であったか。
「何、一護の知り合い?」 友人たちはノートそっちのけでわらわらと一護に群がる。 「紹介しろよー」 なんてお決まりの台詞を吐きながら。ところが心の一護が目を見開いたまままったく反応しないものだから、さすがの彼らも一護が心配になってきた。
「ね、なんかワケあり?」 誰かがこそりと囁いた。
「ルキア?」 一護は信じられないものを見たかのように呟く。実際、信じられなかった。
ルキアと呼ばれた少女が、その瞬間、にやりと笑ってみせた。 「久しいな、一護」
「なんで、おま……ここに……」
机と椅子の間を器用にすり抜けながら、ルキアが一護たちのもとにやってくる。 「いやーうん。久方ぶりに、長期休暇が取れたのでな。おまえのところに遊びに来たわけだ」
「長期休暇?」
「二週間ほどな」
「二週間!?おまえ、二週間も何処にいるつもりだよ!?」
何処って。ルキアが首を傾ける。 「だから、おまえのところに遊びに来たと言うたではないか」
「つまり、ルキアちゃんは、一護の家にお泊りになると!?」 うっひょー!と一護たちの会話を聞いていた男たちが、何が嬉しいのか、興奮しきった様子で騒ぎ出す。
「案ずるな、兄様もご承知の上だ」
「家族公認!!」 また誰かが叫んだ。
「黙れ、てめーら!さっきから言いたい放題言いやがって!」 騒ぐ友人たちを一括して、一護はずきずきと痛む頭を手でおさえながらルキアに言う。 「おまえは……おまえはな……」
「何だ、一護」
「馬鹿野郎」
んな、とルキアが目を見開いた。 「馬鹿だと?」
「そうだよ、一護。こんな可愛い子に馬鹿とは酷いじゃないか」
また騒ぎ出す友人を今度は一睨みして黙らせ、一護は溜息をこぼした。
「なんで休暇をとるのが、よりによって今なんだ」
「は?」 ルキアが訝しげに眉をひそめた。
「おれは、明後日から、みっちり試験週間だっつーの!二週間、まるまるだ!!!」
青嵐 050910