「緋真」
抑揚に欠いた声は、ともすれば相手を威圧しているかのよう。如何なる場合においても決して不遜な態度を崩そうとはしない彼は、人は皆、自分の呼びかけにこたえることが当然とでも思っているのか。
緋真がゆるりと顎をあげれば、鋭利な刃のように美しく整った顔が彼女をじっと見据えていた。表情が乏しく口数が少ない彼ではあるけれど、それを補うかのごとく彼の瞳が彼の心のうちを雄弁に語ることを知る人は少ない。その少ないうちのひとりに自分が含まれているという事実が、緋真には未だに信じられない。硬質な美しさを持つ彼の顔を、瞳を、このような近距離で見つめることを許された者が、この世に果たしてどれほどいるのだろう。
恐れ多いことだと思う。流魂街出の女が、大貴族の当主を真正面から見つめるなど、本来なら許されるようなことではない。
たまらず俯いた緋真に、苛立たしげな声が降り注いだ。 「緋真」
逆らえぬ強さ。緋真には、彼の顔を見つめる資格もなければ、かといって彼の言葉に逆らうこともできない。きゅっと唇を噛み締め、引きずられるように面をあげれば、そろりと密やかな衣擦れの音が緋真の耳をくすぐった。目を見開く緋真に向かって、彼のしなやかな腕が伸ばされ、触れるか触れないかの微妙な均衡を保ちながら、白哉の長い指先が緋真の頬を滑る。
羽毛のようにやさしく触れるその指が震えていることに気づかぬ緋真ではない。また、その静かな瞳の奥に微かに宿る熱を知らぬ緋真でもない。
しかし、だからといって、自分にいったい何ができようか。冴えきった頭が彼に抗えと叫ぶのに、抗えぬ。どくりと波打つ心の臓が彼を受け入れたいと暴れるのに、受け入れることもできぬ。じっと、じっと耐えるより他ないのだ。
「緋真」
隙のない声が、今は悲しい。望むならこの世のすべてさえ望めるはずの彼が、たかが流魂街出の女に触れることすら躊躇している様は、なんと痛ましい。
涙を零すことも、彼の名を呼ぶことも、その真摯な瞳を見つめ続けることも躊躇われた緋真は、そっと瞼を閉じた。
泡沫のほとり 050908