白哉に連れられてやってきた、そこは。桜の老木の下。
四大貴族の者の墓とは思えぬほどにささやかなそれは、いったいどういう意味を成すのだろうとルキアは考える。しばし巡らせた思考の末に行き着いたところは、白哉の心遣いなのだろうと。そういうことでルキアのなかに落ち着いた。
生前、桜を好んでいた緋真のために移されたというその老木は、季節が巡るごとに見事な薄紅の花を咲かせるという。ささやかな墓石は、華美なものを好まなかったという緋真にとても相応しいく、そして彼女がこの世を去って四〇年以上経つというのに、石はただ一つの曇りもなく綺麗に磨かれている。何れも白哉のありったけの誠意と細やかな心遣いの上にあることは、ルキアが容易く想像できる範囲であった。
緋真の墓が置かれた場所が、朽木家の邸宅にほど近いことも、また、彼女が死した後も孤独を感じないでいられるようにという白哉の配慮だろう。いや、これについては、緋真にためというよりも、むしろ白哉自身の望みでもあったのやもしれない。緋真が他界し、その寂しさに沈んでいたのは、残された白哉に他ならないのだから。
もっとも、白哉の内に巣食う寂しさを、ルキアが知ったのはつい先日のこと。ルキアに白哉がそれまでルキアが知りえなかった真実を話した日だ。真実とは言うものの、その話の内容のほとんどは緋真のことではあったが。何にせよ、ルキアにとって、義理とは言え兄でありながら接点らしきものをほとんど持ち合わせていなかった朽木白哉という男を知り、そしてルキアと同じ血を持つ肉親を知るよい機会であったことにはかわりはない。
無口な彼の語るルキアの姉は、儚い形象が終始付きまとっていたが、姉の最期の様子を聞くだにルキアがそう思うのも無理はなかった。
白哉がルキアに語った姉の姿は、おそらく彼の想い出のなかのほんの一握りに過ぎない。もともと多くを語ることを嫌う白哉のことであるから、それは尚更だろうと思われる。それでもルキアには十分だった。淡々と語る白哉の少ない言葉の端々から、彼が亡き妻を心から愛していたことも、それ故の白哉の苦悩も伝わってきた。前者はともかく後者をルキアが知ることはは、白哉の意図とするところではなかったやもしれぬが、彼が妻を愛していたのだと知れば知るほど、無表情の下に隠された白哉の底知れぬ苦しみや寂しさをルキアは自ずと感じることができたのだ。
白哉に促されるように、ルキアは墓の前に立った。ルキアがもたもたとしてる合間にも、白哉は既に手を合わせていた。そんな彼を見て、ルキアは墓石の前に膝をつき、白哉と同じように静かに手を合わせた。瞼を閉じて、墓石の下に眠る実の姉を想う。しかし、ルキアはここにきて、緋真にいったいどんな言葉をかけるべきなのかを答えあぐねていた。
ここは、白哉曰く生き別れた妹のことを想い続けてついには儚い人になったという緋真に、ルキアは己の無事をきちんと伝えるべきなのだろうか。数十年ぶりの姉妹との再会に、妹である己は涙ながらに姉の墓石に縋ればよいのだろうか。
緋真と別れた当時の記憶は、ルキアにはない。あまりに幼すぎたのだ。だからこそ、突然の姉の出現にルキアは動揺を隠せなかったし、しかも彼女が既に死人となっているとなれば尚更。姉とは言え、記憶の欠片も残っていない人に、どうして言葉をかけられようか。
自分を捨てた姉を赦せないでいるわけではない。ただ、戸惑いがいつになっても拭えないだけだ。緋真とルキアが生き別れるに至った事の顛末をルキアが知った折、白哉はルキアに 「緋真を怨むか」 と問うた。静かで抑揚に欠いた声ではあったが、白哉の微かに歪んだ顔を前にして、ルキアは否と答えるより他なかった。
実を言えば、怨んでなかったといえば、嘘になる。事情を何も聞かされていなかったルキアは、己を通して緋真を見ていた白哉はじめ朽木家の人たちを、心のどこかで憎んでいた。そして、その密かな思いの矛先は、緋真へと向き、白哉からすべてを聞かされるときまで、それはルキアの心の奥底で燻っていた。
しかし、皮肉なものだともルキアは思う。白哉の語った真実から、ルキアはきっと白哉すらも知らない緋真の一面を知った。それは、浅ましく、醜く、汚く、ずるい一面。ルキアにそっくりだった。例えば、ルキアが緋真の立場だったら。生きるために幼い妹を捨てるという所業を、ルキアはできるだろうかと自分に問う。おそらく、自分ならやってのけるだろうとルキアは思う。生きるために、自分のために。なんて浅ましい。それは、海燕が虚(ホロウ)となったときの再現のようだった。あのときの自分に、緋真の立場を置き換えてみれば、緋真の気持ちがするすると紐解いていける。怖いくらいに、簡単に。
いつだって、自分のために生きてきた。自分だけのために。
緋真の生き方は、まるでルキアのそれを鏡に映しているかのようだった。
かつて緋真を怨んでいなかったわけではないが、白哉の告白を機に緋真という人の一面を知り、己を絡め捕っていたどす黒い思いから、ルキアは開放されたことは確かだ。これが、姉妹の因果だと言うのなら、それはなんと皮肉な巡り合わせだろう。ルキアはそう思わずにはいられない。
―――ルキア、おまえはおまえの姉を…、緋真を怨むか。
緋真という人を知ったからこそ、あのときルキアは首を横に振ることができた。ルキアがいいえと首を振ったとき、あの白哉が自ら視線を逸らして俯いたときは、驚いた。微かに震える彼の指先をルキアは見て見ぬふりをし、やがて 「緋真のかわりに礼を言う」 と頭を下げた彼を見て、彼の心の中に今尚住み続ける緋真の残像を垣間見た気がした。白哉は今も緋真を忘れることなく、想い続けている。静かに、ひたむきに、しかし激しく。
そんな白哉の気持ちを、ルキアは考えた。亡き妻の遺言を忠実に守り、ルキアを広い尸魂界のなかから見つけ出し、朽木家に引き取った白哉の気持ちを。亡き妻と瓜二つの義妹の顔を初めて目にしたときの白哉の驚きと戸惑いはどのれほどのものであったのだろうか。かつつて愛した、いや今も愛している亡き妻の面影をそのままに引き継いだ義妹の存在は、どれほどに彼を傷つけたことだろうか。辛くないはずがなかった。
ルキアは手を合わせたまま、横に立つ白哉を見上げる。白哉はもう瞼を開けており、どうやらルキアが祈り終わるのを待っているようであった。あるいは、緋真に祈りをささげるルキアを見下ろしていたのか。
「もうよいのか」
実はなんと祈ったらよいのかわからないのですとも言えず、ルキアは黙って俯く。そんなルキアの仕草をどうとったのか、白哉は何も言わなかった。
一陣の風が二人の間を吹き抜ける。頭上の大きな桜の老木が、かさかさと揺れる。春が来れば、ここは見事な薄紅色の世界になるだろう。
緋真……、と、白哉は何も語らぬ墓標に語りかける。せめてもう一度くらい共に、満開の桜の下に立ちたかった。
もっと共にいたかった。もっと話したいことがあった。愛していた。同じ貴族の者には、よくぞ流魂街出の女などと結婚できるものだなと言われたものだが、それは違う。相手が緋真であったからこそだ。例えば、緋真が貴族であったのなら、白哉はやはり緋真を妻としていただろう。緋真だから。緋真だけが。
生まれて始めて愛した女だった。しかし、その女の心には常に白哉ではない、別の人がいた。―――それが、ルキアだった。
彼女は最期の最期まで生き別れたルキアの身を案じ続けていた。それは彼女の心根のやさしさの表れであろうし、またその優しさによって、彼女がどうしようもないほどの良心の呵責と後悔の渦に沈んでおり、そしてそれゆえに、緋真はついには病に倒れるに至ったのだ。ルキアを想って、想って、想い続けて憔悴していく緋真の瞳に映るのは、やはりルキアだけだった。
冷たくなっていく妻をかき抱きながら、ついぞ自分は彼女の妹に勝ることができなかったのだと、白哉は痛感した。行き場を失った想いは、やがて顔も知らぬ妻の妹への嫉妬となり、それでも妹を探して欲しいという妻の遺言に抗うことなどできず、板ばさみの状態に陥った。渦巻く想いに耐えかねて、愛していたはずの妻を怨んだこともある。いや、愛していたからこそ、怨んだというべきだろう。
妻が儚い人となってしばらくの後、様々な葛藤を抱えながらも、結局妻の願いどおりに彼女の妹を見つけ出したはよいものの、そのときの衝撃を白哉は忘れられない。緋真と同じ顔で、しかし決して緋真ではないルキアにいったいどう接するべきなのか、白哉には計りかねた。いや、妻の言いつけ通り、彼女を朽木家に迎え入れ義妹としたのだから、義兄としてルキアに接すればよいことくらい、白哉はわかっていたのだ。だが、できなかった。緋真と同じ顔を見ていることが、白哉は辛かった。同時に、最期まで緋真の心を支配し、ついには彼女を死に追いやったルキアを見ていることが耐えられなかった。逆恨みだということは百も承知だ。しかし、そうでも思わないと、この重すぎる想いに白哉は押しつぶされそうだったのだ。
だから、白哉は朽木家のなかで戸惑うルキアに手を差し伸べることもせず、真実さえも語らなかった。真実を語らずにおくことが緋真の願いのひとつであったということに、託けて。何も知らぬルキアは、案の定、ただただ戸惑い、冷たい義兄に怯えることとなった。
一方で、白哉のルキアに対するそんな冷淡な態度が、名門貴族の当主が亡き妻と瓜二つの少女を迎え入れたという報に対する周囲の好奇の眼差しを眩ませるのに一役買ったことは、あまりにも皮肉な結果だった。
時は過ぎ、その頃既に、白哉とルキアの離れすぎた関係に修正の余地などなかった。緋真と同じ顔を、瞳をたたえて、一歩も二歩もひいた態度で臨まれるのは白哉の心に堪えたが、すべては白哉の選んだ行動による産物であり、自業自得であった。愛していた妻を怨み、妻の願いに逆らってルキアを疎んじた己にはなんとも相応しい結果だと、己を納得させるより他なかった。
そのまま真実をひた隠していくつもりでいた白哉が、その後ついにルキアに真実を打ち明けるに至った事件は、言わずもがな藍染造反事件のなかでの黒崎一護との出会いであり、それは白哉にとって想定外のものではあったが、白哉はこれでよかったのだと思っている。妻の願いを破る結果になってしまったが、「済まぬ」 と言った白哉の手を握り返してくれたルキアを見て、己の選択は決して間違ってはいなかったと白哉は思った。亡き妻とて、本心を言えば、ルキアに自分が姉だと名乗りたかったに違いないのだから。
今こうして、白哉とルキアが並んで墓の前にいることを、緋真はどう思ってくれているだろうか。喜んでいてくれるはずだ。あるいは、涙を流しているかもしれない。念願の妹と再会できて。
本当だったら、緋真がまだ生きているうちに、彼女とルキアを引き合わせてやりたかった。
出来ることなら、三人で共に桜を見たかった。薄紅色に咲き乱れる桜を。
やがて徐に立ち上がったルキアが、白哉を見上げた。
「もうよいのか」
ルキアはゆっくりと、しかしきっぱりと頷いてみせ、そして言って。 「また、こちらに参ってもよろしいでしょうか」
「おまえは緋真は唯一の妹だ。妹に会えることほど、あれが喜ぶこともないだろう」
「ありがとうございます」
「礼などいらぬ」
冷たいというよりも、むしろつっけんどんな白哉の物言いに、ルキアは我知れず笑みを零した。
病み上がりとは思えぬ優雅な動きで、身を翻して先を歩いていこうとする白哉を追いかけるよりも前に、ルキアは今一度だけ緋真の墓を振り返る。
緋真様……。
緋真姉様。
私は、朽木家で生きていきます。
そして、またここに来て。
次こそは、貴女様と姉妹らしくお話をしたいのです。
この桜の木の下で。
桜の憧憬 050906