「白哉様…!!」
勢いよく開けすぎた襖がぱんと大きな破裂音を発する。背後から、緋真の粗暴な振る舞いを諌める女中たちの声もあがったが、緋真は頓着しなかった。
緋真の視線の先、広い和室の座卓の前に座していた人影がゆるりと振り返る。緋真たちの喧騒とは、一線も二線もひいた静かな動作だ。まるで、そこだけが別世界のような。緋真は白哉のその圧倒的な何かに一瞬たじろいだが、すぐに自らを奮い立たせて部屋の中に足を滑らせた。部屋の外では、朽木家に仕える者たちが、蒼白な面持ちで朽木家当主夫妻の動向を見守っている。
緋真が白哉の許しを得ずに、彼の自室に入るのは初めてのことだ。ましてや、今は、先刻白哉によって自室に近づくことさえ禁じられたばかりという非常事態である。未知の世界に踏み出したことによる極度の緊張のためだろう、緋真は足の裏に汗までかいていた。彼女はぎゅっと唇をむすんで、緊張する意識を逸らすかのように、ことさら足音を立てて白哉の前に歩み寄った。
緋真を見上げる白哉の顔は、よくよく無表情だ。
「何用だ」
ぴりぴりと、言葉の端々に込められた威圧感。しかし、ここまできて今更そんなものに怯む緋真ではなかった。
「お勤めからお戻りになった主人の顔を見たいと、妻が思うことはいけませんか」
平時の緋真なら絶対に口にしないような言葉に、白哉はかすかに目を見開いた。白哉の妻という立場を自分には恐れ多いものと言って止まない彼女の言動とは、白哉にはとても信じられなかった。
「今日はここに近づくでないと、聞かなかったか」 と、白哉は部屋の外に佇む女中のひとりを睨みつける。一刻ほど前に、緋真に白哉の命令を言付かってきた女中だ。
すっかり萎縮してしまった彼女を見て、緋真は眉を顰めつつ白哉に言った。 「おやめください。彼女に非はございません。責めるのでしたら、白哉様の言いつけを破ったこの緋真を」
「戻れ」
「嫌でございます」
この夫婦のやり取りに誰よりも驚いているのは、襖の開け放たれた部屋の外に立つ女中たちだ。大人しく常に控えめな奥方の思いもよらぬ強情さもさることながら、奥方にこのような高圧的な態度で臨む当主の姿を、彼女たちは見たことがない。いったいどうしたというのだろう。
「戻れ、緋真」
頼むからとでも言いたげな白哉の額にうっすらと浮かぶ脂汗を目に留めて、緋真の中で何かが弾けとんだ。
「ご無礼をお許しください」
言うが早いか、手を出すが早いか。剣呑な雰囲気の白哉と緋真を遠巻きに見ていた女中たちが、あっと声をあげる。思わぬ緋真の行動に、白哉さえ目を見張る中で、緋真は構わず夫の腕を掴んだ。
「……っ!!」
緋真に力いっぱい腕を握られてたまらず顔を苦悶に歪ませた白哉を、緋真は目一杯睨みつけて、よく通る声で言い放った。 「お医者様にはきちんと診ていただいたのですか」
女中たちの行動は早かった。呆然とする白哉をあっという間に押さえつけ、白哉が抵抗するのもものともせずに、彼の腕から着物を剥ぎ取る。顔をしかめた女中頭が、すかさず薬師を呼ぶように叫び、下っ端の若い女中が慌ててどこかに消える。やれ着替えの用意だ、やれ寝具の用意だと走り回る頼もしい彼女たちを見守りながら、緋真はそっと息をついた。
障子から差し込む光はまだ橙色の時刻だというのに、寝巻きを着させられたことも。眠くもないのに、布団に無理やり押し込められたことも。たった一飲みしただけで吹き出すくらいに不味い薬を、大量に喉に流し込まれたことも。何もかもが不本意だと言わんばかりに、憮然としている白哉に、緋真は非難交じりの視線を向けた。
しかし、まあ、緋真も白哉に少しばかり同情しないわけではない。
白哉が腕に太刀傷を負っていると判明した途端に、女中たちのあの圧倒的な動きには緋真も少なからず驚いた。朽木家の大切な当主が傷物にと大慌てする一方で、問題ない言い張る当主を一括して黙らせてしまった女中頭のあの剣幕たるや。彼女の前では、朽木白哉がまるで子どものようだった。聞けば、彼女は白哉が生まれるより以前から、この朽木家に奉公しているという。
女中も薬師も退出し、静けさが戻った当主の寝室で、当主夫妻は無言で向き合っていた。
やがて、妻の非難の眼差しに耐えられなくなったとうに、白哉は重い口を開いた。 「何故わかった」
「白哉様の早すぎるご帰宅と、突然の人払いを不思議に思っておりました矢先に、浮竹様と卯ノ花様が御連名でお手紙をくださいました」
舌打ちをせんばかりの勢いで顔をしかめた白哉を、緋真は憤然とした様子で睨みつける。
「市丸様と勝負なさって、そのお怪我をなさったそうですね」
「そのようなことまで書いてあったのか」
「ええ、そのようなことまで、事細かに。聞けば、市丸様も大層なお怪我をなさったとか」
「……誤解するな。ただの副隊長同士の刀の鍛錬だ」
「ええ、浮竹様のお手紙にもそう書かれておりました。もっとも、鍛錬とは言うものの、あまり褒められたものではないことには、かわりはないようですが…」
「それも浮竹隊長の手紙に書かれていたことか」
「ええ、褒められたものではないと、しっかり」
黙ってしまった白哉を横目に、緋真は淡々と続けた。 「卯ノ花様の治療を受けるよう浮竹様より言われましたのに、結局そのまま帰路につかれてしまった貴方様を、浮竹様たちは大層ご心配なさっておいででした。加えて、早急に医者に診てもらうよう、浮竹様たちより言付かりましたので……」
「わかった。私が悪かった」 もう十分だと、白哉は緋真の言葉を遮る。
「私、怒っているのですよ」
「ああ、わかっている」
「私が…緋真が、白哉様に腹を立てる日が来るだなんて思いもよりませんでした」
俯いた緋真のぎゅっと握られた拳が震えている。
「すまなかった。しかし、これしきの怪我なら、私の霊力で半日もすれば治る。緋真の気の揉みすぎだ」
「脂汗までたらしていた方が、よくもまあそのようなことを……。それに、お医者様たちが真っ青なお顔で、白哉様の腕を治療しているときは、緋真はもう生きた心地がしませんでした」
「あの者たちは、大げさすぎるのだ」 額に手を当てて、白哉は嘆息する。
「白哉様のお体を心配なさっておいでなのです」
「わかっている」 しかしな、と白哉は大きく息をついた。 「あれではてんで子ども扱いではないか」
そう呟く白哉の横顔がひどく幼く見えたものだから、緋真は先ほどまでの怒りもすっかり吹っ飛び、堪えきれずに吹きだしてしまった。顔を高揚させて笑いを堪える妻を見て、白哉がいよいよ臍を曲げてしまったのは言うまでもない。その後、彼の機嫌を直すのに、緋真が相当苦労をしたのだが…。
そして、そんな当主夫妻のやり取りを目撃した(もとい盗み見ていた)女中頭が 「白哉様もまだまだでいらっしゃる…」 と、どこか嬉しそうに零したことを、白哉は知らない。
女中は見た! 050902