あれは、きっと、そう。生涯でただひとりだと思った女の頬に、初めて触れたときだった。
貴族、平民、流魂街、掟、常識、伝統、身分違い、外聞、世間の目。ありとあらゆる言葉を並べて、白哉を拒絶する口を無理やりに封じて、白哉は言い放った。 「下らぬ」
「そう、あるいは、私が申上げていることは下らないことかもしれません」
風にも簡単に倒されてしまいそうなくらいに華奢な緋真の瞳は、しかし、強烈だ。朽木家の当主にこんなにも面と向かえるものは、そうはいまいが、彼女は貴族でもなく、ましてや死神でもなかった。
白哉は冷ややかに彼女を見下ろすが、やはり彼女は怯まなかった。潤んだ瞳はそのままに、彼女は気丈に白哉を見据える。先に目を逸らしたのは白哉だった。
「下らぬ」 今一度、白哉は低く呟いた。
「それでも、白哉様はご自身が下らぬこととした場所から、決して離れて生きることはできますまい」
「私に朽木家を捨てろと言うのなら、そうする」
緋真はゆっくりと首を振ってみせる。 「何をおっしゃいますか。朽木家の御当主たる貴方様のお言葉とは信じられませぬ」
彼女の口調はさながら、聞き分けの悪い幼子をやさしく諭す母親のようだ。白哉はたまらず眉を顰めた。
「いつの日か、きっと後悔なさいますわ」
「私がか」
ええ、と緋真は頷く。 「きっと、後悔なさいます。緋真を選んだことを」
「後悔など」
しようものか、という白哉の言葉は緋真によって遮られた。 「いたします。きっと……。いえ、必ずや、貴方様は後悔なさりましょう」 緋真の声は静かではあったが、有無を言わせぬものがあった。
「何故、そう言い切れる。何故、私を信じてくれないのだ」 この想いを。この情熱を。何故、この女は拒絶する。彼女もまた、白哉を思っていてくれることは、もはや誰の目から見ても明らかだというのに。
「白哉様がおやさしい方だからです」
白哉は瞠目し、やがて呻くような声をあげた。 「おまえの言うことがわからん」
「貴方様は、朽木家を捨てることなどできないと、緋真はそう申上げたいのです。御当主たる白哉様がすべてを投げ出したらどうなります。朽木家の方々も、朽木家に仕える方も皆が路頭に迷ってしまうことを、貴方様は誰よりもよくご存知のはず」
「私の代わりなど、いくらでもいる」
「朽木家歴代当主最強の死神様として、朽木家をますますの高みに導いてらっしゃると評判の方が、貴方様以外の何処にいらっしゃるとおっしゃるのですか。万が一、貴方様が私を選んでくださったとしても、朽木家を…いえ、朽木家の当主たる御自分を捨てることは貴方様には死してもできますまい。貴方様は、先ほど、朽木家を捨てるとおっしゃったけれど、朽木家を導くために生まれ、生きることを約束された貴方様にはそのようなこと決して、決してできますまい。そして……だから……、もし貴方様が緋真を選ぶのなら、それによって苦しむのは他ならぬ白哉様でございましょう」
緋真と朽木家の板ばさみになり苦しむ白哉の姿が、緋真にはいとも簡単に想像できる。苦しみ、苦しみ、その先に彼の逃げ道があろうか。朽木家当主の名を捨てることもできず、そしてやさしい白哉は緋真を捨てることもできないだろう。そうやって苦しむ白哉を、緋真は見たくはない。
「私は私のために苦しむ貴方様など見とうございません」 白哉を見据えながら、緋真は続けた。 「それとも、その折には、朽木家をお選びになって、私を切り捨ててくださると貴方様はおっしゃいますか」
白哉の切れ長の目が見開かれ、信じられないとでも言うように緋真を見下ろしている。
捨てられない、と白哉が言えば、白哉が苦しむからと緋真は彼を拒絶するだろう。では、捨てられると…緋真を切り捨てられると、白哉が言えばどうなるだろう。自分が苦しいからと言って簡単に切り捨てられるような、そんな程度の想いだと。白哉の緋真への想いはそんな程度のものだと、宣言するも同然ではないか。
答えられぬ。緋真の問いには、白哉は何があっても答えられなかった。悔しさとやるせなさで、白哉はぎりりと奥歯を噛み締めた。
「おまえと、朽木家が、何故天秤にかけられなければならない」 彼の呻きは、白哉にとっての根本の疑問であり、想いであった。
気丈に白哉を見据え続けていた彼女が、初めてふいと目線を落とす。
「私がどこの馬の骨ともわからぬ娘だから、それ以外に何の理由が」
緋真の声は静かだった。
白哉は、朽木家という四大貴族の当主であり、緋真はただ人。彼らの違いなどそんな程度だ。下らない。心底下らない、と白哉は思う。けれど、二人を結ぶにはあまりにも大きすぎる障害だった。余談ではあるが、もうひとつ、緋真には、白哉を受け入れられぬ事情があったのだが、白哉がそれを知るのは、もう少し後の話である。
やがて、白哉は緋真を朽木家に迎える。周囲の反対も、一族の掟も何もかもを振り切って。
緋真の懸念どおり、朽木家当主とただ人の少女との婚姻は、貴族社会に大きな波紋を呼び、結果として、輝かしい白哉の評判に傷をつけることとなった。ほどなくして、周囲の非難の矛先は白哉ではなく、妻・緋真に移る。緋真自身、容赦ない誹謗中傷に傷つかなかったと言えば嘘にはなるが、ほっとしたのもまた事実だった。白哉が傷つかなくてすむと思えば、自らに降りかかる声など気にもならなかったのだ。しかし、白哉はこれをよしとしなかった。
謂れのない非難を受ける妻を守るかのように、そして傷ついた朽木家のかつての名声を取り戻すかのように、死神としての勤めに心血注ぐ白哉を見ていて緋真が胸を痛めたのは言うまでもない。白哉の努力の甲斐あってか、やがて、緋真・朽木家両者への中傷が収まったのは、少ない救いのひとつであった。
何より、白哉にとっては、緋真が横にいるという事実が、救いであり光であったのだ。しかしこの光は長くはもたなかった。緋真が病に伏したのだ。消せない罪の意識に苛まれ、やがて緋真は儚い人となった。
絶望の淵に立たされた白哉であったが、その後間もなくして現れた緋真の生き別れた妹・ルキアは、少なからず白哉に力を与えた。生前の緋真の願い通り、ルキアを朽木家の養女として迎え入れ、しかしここでまた問題がおきた。白哉が緋真を妻として朽木家に迎えた折と、寸分変わらぬ現象がおきたのだ。一度ならず、二度までも、掟を破った白哉には今まで以上に非難が向けられ、ルキアにも決して好ましくない眼差し向けられることとなった。
その日、空は青かった。亡き妻が綺麗だと褒めていた空だった。
遺影のなかの彼女は、白哉の記憶と同じくやさしく微笑んでいる。細くか弱そうな容貌に反して、意外にも彼女は強い。それは彼女の光り輝く瞳を見ればわかることだ。白哉はその瞳に惹かれたのだ。けれど、彼女はやはり脆い人であった。だから、白哉を残して、逝ってしまった。その弱さをついぞ支えてやることができなかった自分の不甲斐なさは、いくら呪っても足りない。それは妻が去って、何十年経った今もなお変わらぬ思い。白哉は、自分の不甲斐なさが許せないままだ。
今日、妻の妹が処刑される。後、一刻も経たぬ間に。
もし、緋真が生きていて、今の白哉を目にしたらどうするだろうか。罵るだろうか。泣き叫ぶだろうか。掌を振り上げるだろうか。わからない。だけど、少なくとも、微笑んではくれないだろう。ルキアの処刑を止めようともしない白哉に、緋真は決して微笑みかけてはくれまい。そうとわかっているのに、白哉は動けないでいる。
―――貴方には、朽木家を捨てることなどできやしない。
あれは、きっと、そう。生涯でただひとりだと思った女の頬に、初めて触れたときだった。あの日の緋真の言葉が、白哉の耳の奥で響く。全く緋真の言う通りだった。白哉は朽木家を捨てることができない。白哉は自分への中傷を気にしたことはない。けれど、彼の中傷は、即ち朽木家当主たる男の中傷であり、当主は一族の顔であるから、当主の傷は朽木家の名を汚していることになる。それは耐えられなかった。
四大貴族、朽木家、当主、掟、慣習、伝統。下らない。実に下らないことだ。しかし、捨てられない。
だから、ルキアを助けることは出来ない。彼女の処刑を阻むことは、貴族の当主が掟を破ることだ。ならぬ。できぬ。これ以上、朽木の名を傷物にすることなどできぬ。
―――朽木家をお選びになって、私を切り捨ててくださると貴方様はおっしゃいますか。
緋真よ。
動かぬ笑みの亡き妻に呼びかける。
赦せ。
妻の微笑んだ瞳は、やはり動かなかった。
「白哉様」 簾状の扉の向こうに、部下の霊圧があった。 「お時間でございます。双極へ出立のご用意を」
今一度、遺影を見つめ、白哉はゆっくりと瞼を閉じた。
「……行ってくる。緋真」
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銀の鎖に囚われて 050901