緋真が自らの死をもって、その業の贖罪とせしむきらいがったのは、もはや自明であった。
彼女が背負った罪が決して赦されるべき類のものではないことは、白哉とて百も承知している。右も左もわからず、生きるための知恵も術ももたぬ乳呑児であった血を分けた妹を、自らが生きのびるために手放したというのだから。独りで生きることなど不可能に等しい赤子が、無事で済むわけがないだろう。ましてや、緋真が妹と生き別れたのは、劣悪な流魂街だという。
白哉は、流魂街というものを知らない。四大貴族に生まれた彼は幼少のころより徹底的に英才教育を施され、当然知識としての流魂街は彼の優秀な頭に刻み込まれていたが、所詮それは知識止まりにすぎなかった。白哉は、流魂街の実態を知らない。知る必要もなかった。屈指の名門貴族朽木家の直系として生まれたからには、白哉が生きるべき場所は流魂街などではなく瀞霊廷であって、それ以下はありえなかったのだ。瀞霊廷に生き、そして遠いいつかの最期を迎える場所も瀞霊廷であるべき白哉が、流魂街の実態を知ることに意味はなかった。
意味はないと思っていた。過去形だ。白哉が、緋真と出会ってしまった今となっては。
自然と零れる嘆息は、白哉にもどうしようもなかった。当主の落胆振りがひしひしと伝わるのか、彼の側近の一人である男は、主の鎮座する部屋に入ろうとはせずに、部屋に面した縁側に額をつけたまま黙っている。側近である彼は真面目である反面、なかなか融通の利かない男だ。白哉がよいと言うまで、その体勢でいることだろう。
「面をあげろ」 ややあって体を起こした彼を見据えて、白哉は言った。 「何も掴めぬのか」
側近はゆるやかに、しかしきっぱりと首を横にふってみせた。
「何も」
側近の向こうに見える庭を見やる。もう何度、この庭が移り変わる様を見てきたことだろう。妻の妹の行方を追い始めて、既に幾許の時が過ぎ去ったか。未だ、彼女の足取りは掴めぬままだ。
「あちらは変わらぬか」
ええ、と側近は頷く。 「酷い有様です」
額に手を当てて目を伏せた白哉に、側近は再度頭を垂れた。
「急げ。時間がない」
「承知」
白哉は屋敷の奥の自室に戻ると、側近が先ほど据えていった半紙の束に目を通しはじめた。東西南北それぞれ一から八〇までの流魂街の様子が事細かに記載されているそれの字面を、白哉はことさらゆっくりと追う。そこに、白哉の、そして彼の妻が切望する報が記されていないことを承知していながら、白哉は丁寧にそれを読みすすめていった。
週に一度の度合いで、白哉のもとに持ってよこされるこの報告書を、彼はいつもこのようにして読んでいる。それがいつの頃から始まった習慣なのかは、白哉自身、正確には記憶していない。緋真が朽木家に輿入れして間もなく、彼女の妹の捜索を一族総動員で始めた当初は、先ほどの側近から口頭で不毛な捜索活動の結果を聞くに留まっていたのに、いつの日か、側近は主のために事細かな流魂街の報告書を携えてくるようになった。そう、主のためだ。白哉が彼に報告書を作成するよう命を下したことはないが、そこは長年白哉に仕えている男だった。白哉が、緋真の妹にだけでなく、流魂街そのものに興味を示していることを、機敏に感じ取ったのだろう。
白哉が流魂街という場を真の意味で知るきっかけは、言わずもがな白哉の妻・緋真の切なる望み―――つまり彼女が生き別れた妹を取り戻すこと―――である。しかし、ある意味温室育ちの白哉が、知る必要性もなかった未知の世界に興味を抱くに至った要因は、何を隠そう、緋真、その人の存在そのものであった。
何も難しい話ではない。瀞霊廷という塀のなかで生き、塀のなかでその一生を終えるはずだった貴族の青年が、塀の外の流魂街出身の少女に想いを寄せただけのことだ。想いを寄せた相手を知ろうという考えを持つことは、青年にとってごく自然なことであって、何ら不自然なことではない。つまり、白哉が流魂街に興味を抱くというのは、白哉が緋真に興味を抱いたことを意味していた。
もっとも、四大貴族の一角をなす名門の当主たる白哉が、貴族社会においては軽視される流魂街について、そう簡単に調べられるはずもなかった。情報を仕入れるだけの組織も技術も持ちながら、伝統や世間的外聞を第一とする当主としての朽木白哉にとって、白哉の一個人的な願望は取るに足らぬものと判断されたのである。ましてや、生粋の貴族として生きてきた白哉には、彼自身の恋心すら許されるものではなかった。よって、白哉が今のように流魂街の情報を即時に、かつ事細かに手にいてるようになったのは、彼が彼女に想いをよせるようになってから随分後のことだ。
やがて、白哉は周囲の反対を押し切り、外聞も何もかもかなぐり捨て、緋真を我が元へ置こうと決意する。緋真もまた迷いの末、自身の時が経ても消えることのない罪を白哉に告白した。自らの内に巣食う闇を打ち明けることが、白哉の真摯な想いに対する緋真の精一杯の誠意の示し方だったのだ。白哉が緋真の思わぬ告白に、少なからず動揺を隠せなかったことは事実だ。それでも、彼女のためにすべてを捨ててもよいと思える彼の気持ちに嘘偽りはなかった。白哉は迷う時間すら惜しむかのように、生き別れたただひとりの肉親に再び会いたいと願う緋真に応えるべく、生きているとも知らない幼子を求めて広い尸魂界中を探すことを決意する。
これが、白哉が流魂街を知る契機となった。緋真の妹の行方を追いつつ、副次的に流魂街の情報を手に入れるようになったことは、白哉にとっては、思わぬ機会となった。流魂街を知ることによって、白哉の知らなかった緋真を知りえるような気がしたのだ。
一方で、白哉は緋真の妹の安否を絶望視し始めることとなる。罪の意識に苛まれ、ついには体にまで不調をきたすようになってしまった緋真には、決して言えるようなことではない。それでも、流魂街の実態を知れば知るほど、そして時が経てば経つほど、白哉のなかで“絶望”という言葉が膨れ上がっていくことは、防ぎようがなかった。
緋真とて言葉にせずともわかっているはずだ。彼女は、流魂街という場所に実際にいたのだから。あの街の厳しさも苦しさも、すべてを知っているのだから。実の妹を手放さなければならないほどに、人を追い詰めることができる場所であることを、彼女は承知しているのだから。
そして、だからこそ緋真は自分を赦せない。非力な妹を、大の大人さえも根をあげる場所に置き去りしてきた自分を、赦さない。傍に居る白哉が痛々しいとさえ思うほどに、緋真は妹を想い続ける。
忘れろと、白哉は無理を承知で彼女を諭したこともある。忘れてしまえれば、どんなに楽だろうに。それでも、緋真は忘れようとしない。自分には泣く資格はないのだと涙さえ流そうとはしない彼女を痛み、どうしようもなく愛しいと思った。そして、そんな彼女だからこそ、朽木白哉は緋真という人に惹かれたのだと、どこかで納得している彼がいた。皮肉な話ではあるが。
それでも、もういい加減に過去を水に流してやってもいい頃合だと白哉は思う。緋真は十分すぎるほど苦しんだ。彼女の身も心もとうに限界を超えているはずだ。些細な風邪がきっかけとなって、緋真はますます弱る一方だ。ひたりひたりと緋真に近づいてくる、禍々しい闇の足音を聞くには、あまりにも忍びなかった。
そして、白哉にとって、もっとも耐え難いのは、それを当然のことのように受け入れている緋真だ。彼女が自らの死を、当然の報いとして納得してしまっている。傍からは絶望視されている妹の生存を信じているにもかかわらず、彼女は自分が生きることはとうに諦めてしまっている。
だから、白哉は彼女の妹を探し続ける。幼い少女さえ見つかれば、緋真が生きる気力を取り戻してくれるを信じて。
「白哉様…?」
すらりと開いた障子の向こうから、緋真が顔を出した。
白哉は何気ない手つきで、流魂街の報告書を脇の籠に仕舞うと、緋真をなかへと促した。夫婦にしては少々間が開きすぎているのではなかろうかという場所に、緋真は腰を落ち着かせる。遠くはないが、近くもない。もちろん、白哉は緋真を愛しているし、緋真も同じだろう。それでも、これが彼らの距離だ。近くはないけれど、決して遠くはないこの距離が、彼らがもっともよしとする距離なのだ。
「起きて大事ないのか」 声に抑揚こそ欠いているものの、白哉は探るような目つきで妻を見やった。
「どうでしょうか」 のらりくらりとした調子で、緋真は答える。一向に回復の兆しをみせない病魔におかされているために、ますます細くなる体は儚げなのに、なかなかどうして緋真の声の伸びやかさはいつになっても失われない。それが、白哉を幾分か落ち着かせることは確かだ。
「答えになっていない」
「おわかりになりませんか」 くすくすと緋真は笑う。
「悪くはなさそうだ」
薄く微笑む彼女の血色は悪くはない。しかしお世辞にもよいとも言えなかった。
「ええ、悪くありません。だから、白哉様」
「なんだ」
「久方ぶりに、夜のお散歩に一緒に連れて行ってくださいませんか」
夜空にぽっかりと浮かぶ月を見上げるが、白哉は好きだった。そのための夜の散歩だといっても過言ではない。しんと静まり返った夜、いかに足音を立てずに歩くかも白哉のほんのちょっとした楽しみだった。しかし、今夜の散歩はどちらも味わえそうにはなかった。隣を歩く妻が気がかりで仕方なかったのだ。
緋真の突拍子もない申し出に、流石の白哉も絶句した。いったい何を言い出すのかと無表情で慌てる白哉を、緋真は少し意外そうに見て、そして花がほころぶように笑ってみせた。
「ここしばらく、白哉様は夜のお散歩にお出かけになってらっしゃらないでしょう」
確かに、緋真の言うとおりだった。病床に付している彼女に付き添っていた白哉は、夜の散歩どころではなかったのだ。
「だから、今夜は緋真が貴方様に付き添わさせてください」
床に伏してばかりいた彼女が、久方ぶりに外出したいという。白哉に断れるはずもなかった。
秋の夜風は冷たい。そんな風に乗りかさかさと舞う枯葉の音に混じって、ゆったりとした小さな足音が白哉の耳に届く。白哉は極力ゆっくりと歩くようにつとめた。彼らがもっともよしとする距離を測りながら、ゆっくりゆっくりと緋真の前を歩く。ときたま足を止めて振り返っては緋真を導く。手を繋ぐのもいいかもしれないと思いつつも、そう行動に起こせないのが、白哉の白哉たるところか。
緋真は、白哉が立ち止まって振り返るたびに、嬉しそうに目を細めて。少し歩調を速めて、白哉に並ぶ。並んだところで、また白哉が一定の距離を先に進む。そしてしばし歩いた後、また緋真を振り返る。その繰り返しだ。
「白哉様は、本当におやさしい方ですね」
唐突に、しかししみじみと呟いた緋真を、白哉は驚いたように見つめた。自然と二人の歩みは止まり、白哉と緋真は月明かりのもと向かい合うような形で立つこととなった。平時より、幾分か近すぎる感のある距離に、白哉はわずかながら戸惑いを覚えたが、あえて距離をそのままにした。というよりも、白哉は自分を真っ直ぐに見つめる緋真から目を逸らすことすらできず、そんな状態で身動きすることなどできるはずもなかったのだ。
「白哉様は、おやさしい」
「何を……」
「こうやって、いつだって、私の我侭を聞いてくださる」
「それは、おまえが滅多に我侭というものを口にしないからであろう。むしろおまえの我侭など、今日始めて聞いた気がするくらいだ」
いいえ、と緋真は首を振った。 「いいえ、白哉様」
ゆっくりだが、首を振り続ける彼女を、白哉は訝しげに見つめる。やがて、緋真は白哉から目を逸らし、俯いた。泣いているのかもしれないと、白哉が思い立ったのは、しばしの沈黙の後だった。
「緋真」
緋真は答えない。
白哉は緋真に向かって、一歩踏み出してみた。緋真はやはり俯いたままだった。
「緋真」
また一歩踏み出す。
「緋真」
また一歩。
「緋真、面をあげろ」
そっと頬に手を添えれば、白哉の予想に反してそこは濡れてはいなかった。彼女の頬に触れる指にわずかに力を加えて、緋真の顔を白哉に向かせる。緋真は抗わなかった。
「泣くな」
「泣いてなど、おりません」
確かに、頬は濡れてはいない。しかし、どうだ。月明かりに照らされて煌く瞳は。今にも涙が零れそうではないか。
「どうして私に泣く権利がございましょう」
「緋真」
「ましてや、私には怒る資格もございませんのに」
「緋真?」 彼女の意図するところがわからず、白哉は彼女の名前を繰り返し呼ぶことしかできなかった。
怒る?緋真が?
彼女を妻としてからも、そのまえからも、白哉はついぞ緋真が心底腹を立てているところなど見たことがない。彼には、彼女が怒っているところなど想像すらできないのだ。
「何故、緋真を責めてはくださらないのです」 緋真は、むしろ彼女身が白哉を責めるような口調で言った。
「何故、私がおまえを責めなければならぬ」
「私は白哉様の妻です。でも、私は貴方様に何一つ妻らしいことなどできていませんのに。私は貴方様を………」
「愛してないと言うのか」
いいえ。緋真は頭を振って、否定する。とうとう堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。
白哉は、その涙の道をなぞるかのように彼女の頬に指を這わせて、言った。 「私はおまえを愛している」
白哉が緋真にこのように面と向かって愛を語るのは、彼が彼女に結婚を申し込んだとき以来だった。
「それだけでは、よくないと、おまえは言うか」
「白哉様に申し訳ないと、申上げているのです。貴方様は私を思う存分に責め立てる権利があると、そう申上げているのです」
「私は構わぬ。権利を持っているとも思わぬ」
「嘘をおっしゃらないで」 食い入るように目で、緋真は白哉を見上げた。いつの間にか、細い指先が、白哉の着流しに縋りつくように食い込んでいた。 「私は……緋真は、白哉様をお慕い申上げております」
「それで構わぬではないか」 溜息混じりに、白哉は言う。そして、興奮している緋真に上着をかけなおしてやると、帰ろうとでも言うように彼女の背中を押した。しかし、緋真は動かなかった。細い、今にも折れそうな彼女の体のどこにそんな力が残っていたのだろうかと、白哉はわずかに目を見張る。
「私は、この四年余り、妻として最低な振る舞いをしておりました」
「そのようなことはない」
「いいえ、白哉様はご存知でいらした」
「緋真……」
「私が、貴方様を第一に考えたことがなかったことをご存知でいらっしゃったはずです」
「………」
「妹…いえ、自分のことばかりを……」
振るえる肩につとめてやさしく手を添えて、白哉は言った。 「緋真、もうよい。体に障る」
「いつだって、私は自分のことばかりで、白哉様のお手を煩わせていたばかりで」
「緋真」
たまらず引き寄せた体は、どこまでも華奢で儚かった。最後にこれを抱きしめたのはいつであったかと、白哉は記憶を辿る。そのときは、まだここまで細くはなかったはずだ。いつの間に、こんなに。随分と長い間、彼女を抱きしめていなかったのだと、白哉は改めて気づく。
「申し訳ございません」
「謝るな」
「申し訳ございませ……」
嗚咽で掻き消えた声を、胸で受け止めながら、白哉は呻いた。 「謝るな、緋真」
「申し訳……」
「頼む。謝ってくれるな……」
白哉が、緋真を抱きしめなくなったのは、彼女が病床に伏してからだ。夫婦の夜の伽など言うに及ばず。白哉は緋真にあまり触れなくなった。
それを緋真はどのようにとったのだろう。聡い緋真のことだ。白哉の考えていることなど、とうにわかっていたのかもしれない。だから、白哉の望む一定の距離を崩さなかったのだろう。心地よいと、丁度よいと、白哉が感じていた距離を。緋真も同じようにあの距離をよく思っていると考えていたのは、白哉の一方的なもので、緋真はそうではなかったのだ。
「すまぬ」
緋真は白哉の腕の中で、首を振った。白哉の胸のあたりから、いいえ、いいえ、とくぐもった声がする。
「すまぬ」
わかっていたつもりだった。緋真が白哉にその咎を告白したときに、すべてを受け止めてみせると、そう覚悟して緋真を娶ったのは白哉だ。罪の告白よりも以前から白哉がときおり感じていた緋真の闇が、彼女自らの告白によって暴かれたことに浮かれてでもいたのだろうか。今にして思うと、あのときの白哉の覚悟は、あまりにもなおざりなものだったのかもしれない。
誰よりもやさしい彼女のなかから、生きているとも死しているともわからぬ妹が消える日など訪れやしない。誰よりもやさしい彼女が、自らが犯した罪を誰に赦されようとも、彼女自身が赦しはしない。ましてや、緋真のなかで、朽木白哉という男が、彼女の妹以上の存在になるなどというのは、夢のまた夢であったというのに。
すべてを承知したつもりだった。その上での覚悟であり、その覚悟あっての結婚であるはずだった。
「すまぬ……緋真」
そして、とうとう彼女が病に伏し、彼女を診た医者につきつけられた宣告から、白哉は逃げ出したのだ。妹を想い、妹を求め、妹のために罪の意識に苛まれ、妹のために病に倒れ、妹のために死すらも受け入れている彼女の傍にい続けることに、白哉は耐えられなかったのだ。彼女の中では、決して一番にはなりえぬ自分に改めて絶望し、距離を置いた。近づきすぎず、離れすぎず。そんな距離を。
それがどんなに緋真を傷つけることであるかを考えもせずに。人の気持ちに人一倍敏感である緋真が、白哉のそんな心のうちに気づかぬわけもない。そして、彼女は逃げた白哉を責めることをせずに、その矛先を己に向けたに違いない。やさしい人だから。どこまでもやさしい彼女だから。
「すまぬ……」
「おやめください。何故、白哉様が、そんな……」
きつく細い肢体を抱きしめて、白哉は何度も懺悔した。
唯一の血の繋がる肉親を想い続け気を病んでいった妻を、夫である自分は支えてやるどころかその義務から逃げ出し、彼女を死の淵へとさらに追い込んでいたのだ。
「緋真……」 すっと息を吸って、白哉は緋真をまた抱き返した。 「身勝手を承知で頼もう。私のために生きようとは思ってはくれぬか」
腕の中の妻の体が、びくりと震えたのがわかったが、白哉は彼女を離しはしなかった。 「おまえが自分を責め、死さえも受け入れているのを見るのは、もう耐えられぬ。おまえの罪はわたしも背負おう。おまえの妹を探すことには、今以上の労力も厭わぬ。だから……」
私ために生きてくれはくれまいか。
死ぬことに理由があるのなら、生きることにも理由があってもいいだろう。
緋真は答えなかった。ただ、体を震わせ、白哉の胸に顔を埋めていた。微かに聞こえる嗚咽ごと彼女を包み込み、白哉は瞑目した。
緋真へ告げた言葉は、白哉の嘘偽りのない本心だった。傲慢で、身勝手で、我侭な申し出であることなど百も承知だ。覚悟もある。彼女との結婚を決意したときの覚悟など、比べ物にならないほどの確固たる覚悟だった。
もう二度と、この体を離したくはない。離さない。離せない。
だから、生きて欲しい。
「私はもう長くはありません」
白哉も知っていた。白哉は医者に既にそう宣告されている。死を受け入れている受け入れていない、生きたいと願う願わない云々の前に、緋真の体はそういう度合いをとうに超えており、もはや限界に来ているのだ。こうやって、外を歩いていることが、奇跡だとさえ思えるくらいに。
それでも、一日でも長く、彼女が隣にいて欲しいと願ってしまうことは、罪だろうか。
「私は……咎人です」
「おまえの罪は、私が背負うと言った」
「無茶なことを…」
「無茶で構わぬ。それに私は無茶だとも思わぬ。私がおまえが生きることを望んでいる、それだけだ。おまえは、自分がされぬ罪を犯した咎人であることがそんなに恐ろしいのか。ならば、私が赦す。それとも、赦す者が私では不足だと、おまえは言うか」
緋真が赦しを求めているのでは、白哉ではなく、彼女の妹であることなど、白哉とて心得ている。しかしこういう言い方をすれば、やさしい緋真は、否とは言えまい。我ながら卑怯な言い分だとは思うが、背に腹はかえられなかった。案の定、緋真は、ずるい…と涙にくれながら呟いた。
「卑怯なのは承知の上だ」
緋真は白哉の装束をぎゅっと握り締る。 「私にこれ以上、罪を重ねさせるおつもりですか」
「何故、生きることの何が罪になる」
「自らの犯した罪を棚に上げて、あなたとともにいたいと思うことが罪以外のなんであると」
ようやっと顔をあげた緋真の顔は、白哉が初めて目にするような酷い顔をしていたが、今ほど彼女を愛しいと思ったことも初めてだった。緋真は白哉をじっと見上げ、唇を震わせていた。彼女の悲しみと絶望とが混在した瞳の中を、白哉もまたしばし見つめ、そして微かな光を見た。
白哉は息を飲み込み、そして慎重に言葉を紡ぐ。 「………私を選んでくれるのか」
緋真は答えない。
白哉は緋真の涙に染まった瞳を凝視した。 「生きてくれるか。私とともに」
緋真は黙って、額を白哉の胸に押し付けた。 「私の罪を一緒に背負ってくださいますか」
「嘘は口にせぬ」
妻は嗚咽を殺すことさえ出来ずに泣き続け、白哉はそんな彼女を泣き声が落ち着くまで抱きしめ続けていた。
背中から妻の規則正しい息遣いを聞きながら、白哉は夜道を歩いていた。心なしか体温が高い気がする妻の体。呼吸こそ穏やかではあるものの、今夜だけで大分無理をさせてしまった。また、妻の体に負担をかけてしまったことを後悔する一方で、お互いに腹を割って話せてよかったとも白哉は思う。
夜空を見上げれば、そこに浮かぶ満月が大分傾いている。急ごう。早く帰って、彼女を暖かな布団に横にしてやりたい。そして、白哉もその傍に横になるのだ。
自然と急ぎ足になるが、それでも足音はない。静かな夜の散歩だ。また今夜のように緋真とともに、散歩に出かけられたらよいと心の底から思う。無理かもしれない。無理ではないかもしれない。正直、白哉には想像がつかなかった。
だが、緋真が、生きたいと望んでくれた。彼女の罪をともに背負うことを許してくれた。白哉にはそれで十分だった。
螺旋の月明かり 050831